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新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 の感想と、読んだ本の感想を更新しています。

2018年05月

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第489回2018/5/18

 五十年ものあいだ、秘されてきたこの真実が、おそらく今の喜久雄を作り上げたのでございましょう。しかし今その真実を知らされた喜久雄の目に映るのは、なぜか笑いかけてくる徳次の顔なのでございます。(479回)
 
 この後に、父の死の真相から父の死の幻想の世界へと、喜久雄は入ってしまう。
 徳次は、喜久雄にとって真実と幻想、正気と狂気をつなぐ人物なのか?
 徳次は戻ってきているのか?
 だれかが、どうしても綾乃に今日の舞台を観せたかったのは間違いないと思うのだが‥‥。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第488回2018/5/17

 これくらいのことでは、春江は動じない。
 幸子は、我が子を押しのけて二代目半二郎の代役を務めた喜久雄の面倒を見た。喜久雄のことを、この男さえいなければ、俊介が辛い目に遭わなくって済んだはずというのが、幸子の本心だと思う。そんな本心を抑えつけて、市駒の面倒までも見た。それは、丹波屋のためを思ったからだ。
 そんな幸子に、「自慢できる」と言わせた春江だけに、丹波屋のためにテレビで自ら醜態を晒し、それを悪く言われることなど、さほどのことでないはずだ。
 春江が思っていることは、どんなことをしても丹波屋に世間の注目を集めて、一豊、二代目半弥の人気を得ようとしているのだと思う。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第487回2018/5/16

 うまいものだ。どこをどう描けば、この竹野のような登場人物を生みだせるのか。
 竹野は、喜久雄に悪辣なことしていた。綾乃の解けることのなかった喜久雄への憎しみも、竹野の画策が原因になっていた。なのに、どこか期待させるものをもつ人物として竹野は描かれていた。

「でも、もうこれでいい。三代目よ、もうこれで十分だろ。おまえはよくやった。本当によくやったよ。この五十年、おまえが戦ってきたその姿、俺だけじゃない、みんな、忘れるもんか」

 あの竹野の胸のうちだけに、いっそう沁みてくる。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第485~486回2018/5/14~5/15

 歌舞伎役者として当代随一の位置に君臨する喜久雄が描かれている。そして、その姿が寂しく、痛ましい。

 歌舞伎女方の芸術上の価値。その女方としての喜久雄の高度な技法。さらに、歌舞伎役者としての喜久雄の来歴と、現在の芸の高さ。それらすべてが、最高のものとして認められた。だが、その喜ばしい喜久雄の人間国宝認定の通知書は、竹野の外出中に届き、誰も読むことなくデスクの上に置かれた。この状況は、何かを暗示していると思う。

 喜久雄にとって、今信頼できる人は彰子だと思う。その彰子に、喜久雄が役者をやめたいととれることを言った。これは、喜久雄の喜久雄としての本心だろう。
 ところが、彰子が問い返した相手は、喜久雄であって喜久雄ではなかった。

「やめたいんですか?」
 彰子が静かに問いかけたのは目の前にいる喜久雄ではなく、鏡に映った阿古屋でございます。(486回)

 
舞台上の喜久雄と喜久雄本人、言い換えるなら、役そのものの人格と役を演ずる喜久雄の人格との間に垣根がなくなっている。
 これは、正気を失ってしまった役者の精神状態なのか?それとも、歌舞伎の役者の究極の境地なのか?



 安宿で「菊さん」として最晩年を過ごした万菊は、役から逃れて万菊本人の心境に戻っていたように思う。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第482~484回2018/5/11~5/13

 マツ、幸子、春江、市駒、彰子、この小説は男の物語であると同時に女の物語だ。
 登場する男たちは、実生活では、どこか頼りなく、弱い。逆に、登場する女たちは、いずれもしっかりしていて、強い。弁天の女房のマコちゃんも明るく、そして、春江の思いを見抜いている。

 綾乃、綾乃の娘の喜重、一豊の妻の美緒、新しい世代の女たちも、祖母や母に負けない生き方をするだろうと感じさせる。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第478~481回2018/5/6~5/10

 死を直前にした辻村の告白。
 告白を聴いたことと告白の中身は、事実だ。

 喜久雄が見ている光景(480回)。
 それは、きれいだが、幻だ。

「小父さん、もうよかよ。綾乃の言う通り、父親ば殺したんは、この俺かもしれん」(481回)
 

 ここには、事実と幻の世界をさ迷う喜久雄の心情がある。
 喜久雄は正気を失っているのかもしれない。しかし、この許しは、喜久雄の真実の言葉だと感じる。喜久雄は、親の敵を許した。

 喜久雄の目に色が戻ったのはそのときでございます。(481回)

 父権五郎の死の事実を知り、同時に、父権五郎の最期を幻の中で見た。
 喜久雄にとって、父権五郎の死の真相も、歌舞伎の世界に昇華されるのであろうか?

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第476 477回2018/5/4~5/5

 時間は、すべてを飲み込むと強く感じた。
 俊介と一豊の同時襲名から二十年が経っていた。俊介は、亡き人となり、喜久雄と殴り合い、出奔していた俊介の復活のために、喜久雄を悪者にしたあの竹野が、三友の社長となっている。そして、喜久雄の現在の状態を心配している。

 小説の中だけではない。むしろ、現実の方が時間の経過に支配されているとつくづく思う。十代の頃に夢中になった小説を今読み返しても、あの時の感動は戻らない。そして、あの時から六十年が経っている。 
 十数年前に心配と不安に圧し潰される思いでいたことは、もう、過去のことでしかなくなっている。

 春江は、役者の女房だから、特別なのであろうか。そうとも思うし、そうでないとも思う。役者でなくても、人が何かを成し遂げるには、その仕事、役目のために全てを捧げなければならないことが、春江の姿を通して、描かれているように感じる。
 それが、多くの人々に夢や喜びをもたらす仕事であれば、普段の生活や当たり前の幸福は犠牲になるということなのだろう。

国宝 第十九章 錦鯉 第451(2018/4/8/)~475(5/3)回 感想

 喜久雄がたどり着いた境地がここなのか?
 見えないものを見、現実ではなく、かといって理想ともいえない景色の中にいる。

 狂人の目に見えるのが、もしも完璧な世界だとすれば、喜久雄はやっと求めていた世界に立っている。芝居だけに生きてきた男が、決して幕の下りぬ舞台に立っている。だとすれば、それでも正気に戻し、納得のいかぬ世界で生きろと、誰が喜久雄に言えるでしょうか。(第十九章 錦鯉 25 475回)

 狂人のままの喜久雄の姿を、読者として読み続けるのは、切な過ぎる。

国宝 第十八章 孤城落日 第426(2018/3/14)~450(4/7)回 感想

 一豊の事故のことがこの章の中心だ。しかし、春江のことが一番心に残った。
 春江は、長崎で刺青を入れた頃から自分の運命を呪い、その運命に負けまいと生きてきたと思う。自分の辛かった過去を象徴する存在が松野だっただろう。だから、薬に溺れた俊介を救う手助けをしてくれた松野に感謝することはできず、松野が丹波屋に出入りすることを疎ましく思い続けていた。
 一豊の危機を救うために、松野を犠牲にしようと咄嗟に思いついたのは当然の成り行きだろう。それは、春江にとって、松野への復讐でもあったと思う。そして、松野は、それを理解し、春江と一豊のために犠牲になることを承諾した。
 ところが、春江は、自らそうすることを踏みとどまった。恨んでも恨みきれない相手に仇うちをしなかった。
 自分を苛め抜いた相手への復讐が価値のないこと、さらに、愛する子を救うために不正をはたらくことの愚かさを、悟ったのだと感じる。


 これは、喜久雄が、姉川鶴若へ救いの手を差し伸べたことと一致する。

国宝 第十七章 五代目花井白虎 第401(2018/2/17)~425(3/13)回 感想

 両脚を失いながら舞台に立ち続ける俊介、五代目花井白虎に歌舞伎役者としての執念を感じる。ようやく、舞台に出ているという体調ながら、その演技が観客の心を打つのは、喜久雄と二人での役作りがあったからだと思う。

 俊介の死は、悲しい。それ以上に悲しいのは、俊介がいなくなったことを痛感する喜久雄の心情だ。いなくなって、はじめて、俊介が喜久雄の役者人生に、どれほど深くかかわっていたかに気づかざるをえなかったことが伝わってくる。

 聞こえてくるのは、まだ出会ったばかりのころ、二人乗りした自転車の錆ついたブレーキの音。
「俊ぼん、家戻ったら、すぐに京都に出発やろ?」
「このまま駅に直行やで。源さんが俺らの荷物持って待ってるわ」
 あの自転車で、二人はここまで走ってきたのでございます。(第十七章 五代目花井白虎 24 424回) 

 喜久雄が厳しい稽古に耐えられたのも、俊介がいたからなのだと、読み手としても気づかされる。

国宝 第十六章 巨星墜つ 第376(2017/12/27)~400(2018/2/16)回 感想

 見世物小屋で化け猫を演じた俊介に、万菊が言った。

「‥‥今の舞台、しっかり見せてもらいましたよ。‥‥あなた、歌舞伎が憎くて憎くて仕方ないんでしょ」
 一瞬、俊介の視線が揺れます。
「‥‥でも、それで、いいの。それでもやるの。それでも毎日舞台に立つのがあたしたち役者なんでしょうよ」(第十章 怪猫 15 240)


 万菊は、このとき既に、俊介の役者としての将来を見越していた、と思う。そして、希代の立女形と誰からも認められた万菊の誇りと苦悩が、俊介に向かってこういう言葉を吐かせていると感じる。
 舞台の上の美を究極まで追いつめる生活を続けていると、そこから逃げ出したいという気になるのであろう。万菊が、安宿で、「陽気な婆さん」として最期を迎えたことがそれを物語っている。


 俊介は、自分の出奔の詫びを喜久雄に向かって言うことはなかった。また、出奔中の苦しみを喜久雄に語ることもなかった。信頼している喜久雄に苦しい心の内をもらすことなく、襲名披露の口上で万座の観客に、胸の内を吐き出した。役者の舞台というのは、肉親と同様の人とのつながりを超える存在なのだと、感じた。
 俊介の父は、舞台のために、実の息子よりも芸が上の喜久雄を自分の代役に指名した。
 俊介は、兄弟のように信頼し合っている喜久雄よりも、病気にさいなまれている自分の体よりも、舞台を優先させている。
 本物の役者というのは、なんとも凄まじい存在だ。

第十五章 韃靼の夢 第351(2017/12/27)~375(2018/1/21)回 感想

 ずうっと知りたかった春江の生い立ちが、語られた。
 春江の母は、男に左右される生き方しかできなかった。その母に寄生している男に、春江は三歳ころから暴力を振るわれてきた。春江は、この男、松野に恨みしかなかった。
 ここまでは、悲惨ではあるが、珍しい話ではないと思う。しかし、春江が、境遇に負けないところは特徴があると感じる。春江が自分の運命に立ち向かって生きている強靭さが、次の表現から分かる。

 あんた、弱いひとやったわ。いっこも娘のこと助けてくれへんかった。男に甘えて捨てられて、娘に甘えて捨てられて。うちはあんたみたいに絶対ならへんで。‥‥なあ、お母ちゃん、うちがあんたの分の仇もとったるからな。(第十五章 韃靼の夢 9 359回)

 どんな辛い目に遭ってもくじけない春江が、今まで随所で描かれているが、その根底にあるものが伝わってくる。
 また、恨みの対象でしかなかった松野が、廃人となりかけていた俊介を立ち直させる助けになった。こういう運命のめぐり合わせが、印象に残る。

 さらに、謎のままだった喜久雄と春江の出会いの事情も明らかになった。

 (略)小学生のころは生傷が絶えず、「赤チン」というあだ名で、苛め抜かれ、中学になって喜久雄というヤクザの息子と知り合ったことでやっと、自分が呼吸をしていたのだと気づくような、そんな人生だったのでございます。(第十五章 韃靼の夢 8 358回)

 
これで、中学生という年齢でありながら、喜久雄と春江の人生が交錯したことが納得できた。

国宝 あらすじ 第十八章 孤城落日 第426(2018/4/8)~450(5/3)回

 『藤娘』を舞う喜久雄の目の前に、舞台に上がってきた若い男性客が立つという事件が起こった。喜久雄はこの時に、舞台と客席にあるはずの何かが破れ落ちたという感覚にとらわれた。(第十八章)


 喜久雄は、当代随一の立女形と認められるようになっていた。
 その喜久雄と何度も共演している伊藤京之助が、『女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)』の舞台上の喜久雄について、「誰か別人とやってるみたいだった」と不審に思う。このころ、同じ舞台に立つ他の役者たちも喜久雄の変化に気づいていた。しかし、喜久雄への遠慮もあり、京之助のように口に出す者はいなかった。

 喜久雄は、この『女殺油地獄』をやる三年前から舞台以外の芸能活動を一切受けなくなっていた。
 また、喜久雄は、一昨年には文化功労者の栄典にあずかり、「重要無形文化財保持者」、通称「人間国宝」の候補にも上がるようになっていた。

 次の場への出を待っている喜久雄に、孫の喜重が、自宅の火事で火傷を負ったという急報がもたらされる。気が気でなく、舞台を最後まで終えた喜久雄は、喜重が搬送された病院へ駆け付ける。病院の廊下で、綾乃が喜久雄を遮り、「お父ちゃんがエエ見みるたんびに、うちらが不幸になるやんか!」と叫ぶ。
 喜重の熱傷は経過もよく、本人も気丈にも笑顔を絶やすことがない。また、病院での出来事を詫びる綾乃の手紙が喜久雄に届く。

 京之助一門の追善公演で、喜久雄は六年ぶりに『藤娘』を舞う。このころの喜久雄の芸は、他の追随を許さぬのは当然ながら、孤高と呼ぶのも憚れぬような神々しさに満ちている。

 社長の竹野が、久しぶりに喜久雄の舞台を観て、楽屋で喜久雄と話をした。その竹野が、帰り際に、一豊に言う。
「ありゃ、正気の人間の目じゃねえよ‥‥。なあ、いつから‥‥」
 一豊が答える。
「『藤娘』です‥‥。舞台に客が上がってきた‥‥、あのあとからです」
(第十九章 錦鯉 24 474回)

国宝 あらすじ 第十八章 孤城落日 第426(2018/3/14)~450(4/7)回
 
 喜久雄は、亡くなった俊介から息子一豊(二代目花井半弥)の面倒を見ることを頼まれていた。喜久雄は、俊介に頼まれるまでもなく、一豊の後見人となることを心に決めていた。だが、俊介亡きあとの一豊の舞台に取り組む姿勢は、喜久雄を満足させるものではなかった。(第十七章)

 当代の若手歌舞伎役者が一堂に会する新春花形歌舞伎で、一豊は『三人吉三巴白浪(さんにんきちさともえのしらなみ)』の和尚吉三をやっている。
 その一豊が、泣きながら、自分の運転で人を撥ねた、と春江に言う。それを聞いた春江は、近所に住まわせていた松野の部屋へ駆け込む。そして、松野に、「いっぺんくらい、うちのために働いてえな!一豊が人撥ねてしもた。そこで‥‥」と言う。松野は、「その車運転してたん俺や」と答える。無言で着替え始めた松野の姿を呆然と眺めながら、春江に、もしかするとこれで一豊が助かるかもしれないという期待が浮かぶ。
 ふと憑き物が落ちたように春江は立ち上がり、一豊が人を撥ねたという公園へ駆け出す。その公園には、救急車と警察官に囲まれた一豊の姿があった。

 一豊が人を撥ね、一旦はその場から逃げたが、すぐ現場に戻ったこと、被害者は命に別状はないこと、などが寝ていた喜久雄に知らされる。知らせを受けた喜久雄は、三友の社長竹野の指示で社長とともに、一豊が起こした轢き逃げ事故について謝罪の記者会見を行う準備に入る。
 謝罪の記者会見と同時に、三友側と後見人の喜久雄は、一豊を無期限の謹慎にする決定を下す。
 その謝罪会見で、深々と頭を下げる喜久雄の姿が皮肉にも世間に好感を与える。
 被害者である学生は、事故の怪我から順調に回復した。また、事あるごとに見舞いを重ねていた喜久雄は、学生やその両親から逆に恐縮されほどであった。裁判では、被害者の学生本人が過失を認めてくれたので、一豊は有罪とはいえ、執行猶予がついた。


 一豊が起こした事故の件が一応の結果を見たあと、喜久雄が取り組んだのが『沓手島孤城落月(ほととぎすこじょうのらくげつ)』の淀の方の役である。この役への喜久雄の意気込みは相当なもので、その演技は、「三代目半二郎が歌舞伎を超えた」とまで、世間を賑せ、世界的な賞賛を受ける。
 舞台の評価が高まれば高まるほど、喜久雄は孤高の存在になっていき、まるで喜久雄の楽屋だけが異世界にあるような雰囲気さえ醸し出すようになる。
 このころから、喜久雄は、舞台以外の生活で、奇妙ともいえる行動を見せ、妻の彰子を心配させるようになった。

国宝 あらすじ 第十七章 五代目花井白虎 第401~425回

 俊介は、残った片足をも切断せねばならなかった。
 両脚を失うことを突き付けられて、舞台復帰に絶望していた俊介に、「俊ぼん、旦那さん(先代白虎)はな、最後の最後まで舞台に立ってたよ」と喜久雄は言う。(第十六章)

 両脚を失い、義足に慣れるためのリハビリに励む俊介が、喜久雄の楽屋を訪れる。俊介は、舞台に戻りたい、その復活の舞台の演目は『隅田川』で、班女の前は自分が演じ、舟人を喜久雄にやってほしい、と相談する。
 喜久雄は、今の俊介の状態では無理であると思いながらも、俊介の糖尿病が悪化していることも知っていたので、「なんでもやるから、連絡しろよ」と返事をする。

 俊介は、『隅田川』の稽古に喜久雄との二人三脚で必死で取り組む。しかし、俊介の体調は日を増すごとに悪くなっているのが明らかで、それを喜久雄も春江もよく知っている。
 復帰公演となる『隅田川』の初日は、どうにか開いたというのが妥当だった。しかし、初日の幕が上がってみると、これまでにない新解釈の『隅田川』は、絶賛の拍手を受ける。それは、両脚を失った役者の演技が同情されるのではなく、舞台から溢れ出てくる子を失った女(俊介演じる班女の前)の悲しみに対してのものであった。
 千穐楽の三日まえには花道で立てなくなる醜態もあった俊介だが、まさに気力だけで一ヵ月公演を勤め上げた。
 この復活公演のあと、俊介は緊急入院、そして、喜久雄が借りてやった鎌倉の別荘で長期療養となる。その俊介に、先般の『隅田川』の演技に対して日本芸術院賞の受賞が知らされた。春江と病床の俊介は、手を取り合って受賞を喜んだ。 
 俊介は、なんとか体調を整え、授賞式に車椅子で参加することができた。
 
 『京鹿子娘道成寺(きょうかのこむすめどうじょうじ)』をやっている喜久雄に、俊介の病状の悪化が知らされる。そして、舞台への出を待つ喜久雄に、俊介が亡くなったとの知らせが届く。
 喜久雄は、出会ったばかりころの俊介と自分を思い出しながら、舞台を勤める。舞台を勤めながら、今は亡き人となった俊介に、演技の相談をする喜久雄だった。
 「なあ、俊ぼん、ここなんやけどな、もうちょい右足まえに出したほうが迫力出るような気ぃすんねんけど、どない思う?‥‥なあ、俊ぼん」

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