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新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 の感想と、読んだ本の感想を更新しています。

2018年06月

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第13回2018/6/14 朝日新聞

 賢司さんが、母と姉弟の面倒を今後みるわけではないだろう。離婚した父に対する賢司さんの考え方は、正しい。その正しさは、世間的な良識に照らしてものだし、それよりは賢司さんの好悪に基づいていると思う。
 賢司さんや母の親戚の人たちの行動が、母を救ったことになるのだろうか。はなはだ疑わしい。
 洋一郎にとっての思い出の父は、こいのぼりを飾った父であり、煙草屋のおばさんから「お父さんとお出かけ、いいね」と言われた父であった。母が離婚した父をどう見ようが、賢司さんが離婚した父を悪しざまに言おうが、洋一郎にとっての父は、別の人であったと思う。

 万博には、まだ行っていなかった。洋一郎の反応は、年齢からするとごく自然だ。

 私は、この賢司さんのように自分が持っている良識を自分の兄弟に押し付けるような人を、避ける。私自身がこのような態度をとったことがあっただけに、なおさら嫌だ。

『国宝』の特徴
①語り手の存在
 連載小説を読んでいるのに、まるで、舞台を観ているような気分になった。小説中のこととしても、できごととできごとのつながりや時間の経過が妙なところがあったが、舞台上で場が変わるような感じで、そこに違和感を感じなかった。それは、場面転換を「語り手」が行っていたからだ。
 また、歌舞伎の題目と舞台の描写にかなりの紙数が割かれているが、それもストーリーに溶け込んでいた。これも、「語り手」の役割であった。
 ただし、第一、二章くらいまでは、この「語り手」の存在や口調に慣れるのに時間を要した。

②昭和という時代背景
 「喜久雄」のような天才役者はともかくとして、「春江」や「市駒」像は、現代を舞台にした小説では不自然な面もある。それが、そう感じなかったのは、昭和という時代の描き方だったと思う。
 戦後復興もバブルも書かれていたが、昭和の明るい面は描かれていない。むしろ、アンダーグラウンドな昭和が描かれていた。
 民主主義、男女平等、所得倍増、個人尊重を謳歌したのが、昭和時代であった。だが、それは昭和の一面であった。昭和の明るさの陰には、戦中の傷跡から立ち直れなかった人、低所得の労働者、旧来の職業から抜け出せなかった人、戦前の家の考え方にしばられ続けた人などがいた、というのが正しい認識だと思う。
 「徳次」、「弁天」、「春江」、「市駒」は、まさに昭和時代の暗部で、その青春を過ごした人であったと感じる。だから、個性尊重や学校教育に無縁であっても、現代を生きている人物として受け止めることができたのだと思う。

 この小説は、あらためて、昭和という時代について考えるきっかけになった。

③最終回の後味
 劇場から出て行った「喜久雄」は、その後どうなったのか?
 中国から二十年ぶりに日本に帰った「男」を、「徳次」と書かなかったのはなぜか?
 読者に疑問を持たせたままに、『国宝』は終わった。

 「喜久雄」が「徳次」や周囲の人々の手厚い看護を受けて、長い治療と休養の後、正気を取り戻し、舞台に復活する。舞台に復活した「喜久雄」は、円熟を極めた演技を見せる。さらに、「一豊」をはじめとして後進の指導にあたり、歌舞伎界全体の発展に力を尽くす。
 中国で成功を収めた「徳次」は、その財力で「喜久雄」をますます支え、「綾乃」と「喜重」にも力添えをした。
 もしも、こんな風に『国宝』が終わったならば、それこそ、夢物語になってしまう。
 「喜久雄」が完璧を求めれば求めるほど、孤高の存在になるしか道はない。
 成功して、周囲が羨むような社長になるなら、「徳次」の仁侠の道は行き詰る。
 「喜久雄」が、他のどんな歌舞伎役者も及ばぬ究極の役者として存在するには、あの終わり方しかないのであろう。
 「徳次」が、いつまでも「喜久雄」へ忠義を尽くし、常に弱きを助け強きをくじく男でいるには、社長は似つかわしくないのであろう。

 「喜久雄」は、舞台と舞台の外の区別がつかなくなり、「徳次」は、中国で何をしているかわからぬままである。

 それでこそ、長崎の新年会で踊った「喜久雄」と「徳次」なのだ。
 「俊介」と自転車に二人乗りしている「喜久雄」なのだ。

 「徳次」は、「喜久雄」よりも「俊介」よりも愛着を感じる登場人物だ。
 「徳次」は、仁侠の人として描かれていると思う。信義を重んじ、義のためには命を惜しまない。「徳次」は、「喜久雄」のためなら命を惜しまないといつも言い続けてきた。そして、それを「綾乃」を救う場面で、実行した。
 また、弱い立場の者を助けるということも実行していたからこそ、芸者衆やホステスさんたちに人気があったのであろう。「徳次」は、「喜久雄」に忠義を尽くしながらも、「俊介」にとっての「源吉」のように、完全に従うことはしなかった。
 従者でありながらも、主人から離れ、自分の道を歩んでいる。

 「徳次」は、どんな時代でもその価値を失わない人の生き方の典型として描かれていたと感じた。
 だからこそ、作者は、「白河公司」社長を「徳次」として描きながらも、歌舞伎座に向かう「男」を「徳次」とはついに明示しなかったのだと思う。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第12回2018/6/13 朝日新聞

 思い出と過去の記録は、違う。記憶の中でも、思い出は記録とは別のものになるのであろう。
 父がいなくなったことが、洋一郎にとって重い思い出になるのかと予想したが、そうではないようだ。子どものときの洋一郎にとっては、父はこいのぼりを飾ってくれた父であり、万国博に連れて行ってくれた父であるのだろう。
 父と、姉の思い出は詳細なのに、母が登場しないのが不思議だ。

 「春江」と「市駒」と「彰子」、この三人の「喜久雄」を巡る関係を考えれば、互いに憎み合っても無理はない。
 それなのに、この三人は憎み合うどころか、互いに感謝し、尊敬し合っている。
 「俊介」から、丹波屋の御曹司の位置と役者のプライドを奪ったのは、「喜久雄」だ。たとえ、「俊介」がプライドを取り戻しても、憎しみとわだかまりは、そう簡単に消えるものではない。
 それなのに、「俊介」は、「白虎」を襲名するときには、「喜久雄」への感謝を言葉にしている。さらに、両足を失った「俊介」が信頼したのは、当の「喜久雄」だった。
 父を殺した張本人の告白を聞いた「喜久雄」が、目の前の「辻村」に対して動揺と憎悪を隠し切れなかったとしても、それはむしろ自然な反応だと思う。
 それなのに、死期を悟った「辻村」の告白を聞いた「喜久雄」は、平静で、「辻村」を許す言葉さえもらした。

 むすびつくことが難しい関係の人と人とを、むすびつけてしまう。それが、「喜久雄」だった。「喜久雄」がいなければ、「喜久雄」が、歌舞伎だけを求める人間でなければ、この小説の登場人物たちがむすびつくことはない。
 「喜久雄」は、あまたの観客に喜びを与えただけでなく、周囲の人と人をむすびつけていた。

 親を殺した張本人を前にして静かな気持ちでいることができる人が、「喜久雄」だから、読者もそこに共感してしまうと感じた。

 両親の離婚の原因の多くが父にあったことを理解している現在も、思い出の父はよい父だと、洋一郎は感じていると思う。
 煙草屋のおばさんにとって、小学二年生の男の子にとって、この父は親しみやすい人だったのは間違いない。それは、この父の性格の一面だったのだろう。また、この父は、外面では人づきあいがよく、幼い子どもをかわいがる人であったと思う。

 『国宝』の主人公は、歌舞伎の舞台に立つ魅力に取りつかれただけの人間だった。
 『国宝』の全編を通して、「喜久雄」は、空っぽの人間に描かれていると感じる。
  好きになった「春江」と「市駒」と「彰子」、認知した娘「綾乃」、綾乃が生んだ孫娘「喜重」、育ての母親「マツ」、実の父のように感じた「二代目半二郎」、散々世話になった「幸子」、共に修行し互いに競い合った「五代目白虎」、兄同然だった「徳次」、「喜久雄」が大切に思う人は多い。しかし、そのだれよりも大切したのが、歌舞伎の舞台に立つことだったのは明らかだ。
 家族であっても恩人であっても親友であっても、芸の上達ためには犠牲にする者だけが、稀代の役者になることができる。芸術を創り出す真の名人は、「喜久雄」が歩んだように、運命の命じるままに求めるもののためだけに生きなければならない。
 作者は、「喜久雄、三代目半二郎」という主人公を通して、至高の芸術を生み出す者の喜びと孤独と悲しみを描いていると感じる。
 「喜久雄」は、完璧な歌舞伎役者を求め続けただけで、他の人を思いやって、歌舞伎のことを二の次にすることは、まったくなかった。人を思いやるどころか、役作りに没頭すると、周囲の人のことなど考えもしなかった。
 その意味でも、「喜久雄」は、人間として空っぽだと感じる。

 ‥‥ただ、「喜久雄」という人間の存在が、「人間国宝」の歌舞伎役者というだけなのか、というとそうとも言い切れない‥‥

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第9回2018/6/9 朝日新聞

 父についての洋一郎の記憶は、姉の言う通り、実際とはかなり違っているのであろう。そして、父についての姉の記憶も、一方的なものだと思う。それは、姉の記憶が、母の側から父を見たものだからだという気がする。
 姉は、父を攻撃する言葉ばかりを言うが、母の愚痴や弱音の聞き役をずうっと勤めるのも苦労なことだと思う。
 
 父はすでに亡くなったと思っていたが、その生死のほどはまだ明かされていない。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第8回2018/6/8 朝日新聞

 先日五十五年ぶりの中学校の同期会に出席した。参加者は顔を見ただけではまったく思い出せなかった。名前を確かめ合い、しばらく話しているうちに何人かを少しずつ思い出してきた。
 会の後半、同級だった一人の女性が、熱心に話し出した。級友の情報でも中学校でのエピソードでもなかった。話題は、学級担任教師に嫌なことをされたというものだった。中学校生活の楽しかったことは忘れていても、担任教師の嫌な思い出は詳細で鮮明だった。
 かくいう私も、その教師の嫌な思い出は、他人に話すこともないが、鮮明だ。
 親や教師が子どもに残す記憶というものはそういうものなのだろう。
 
 洋一郎が確かめようとしたこいのぼりの記憶、それが父についての思い出のすべてだ。つまり、父についてのはっきりとした記憶は、このこいのぼりのこと以外はほとんどないのだ。
 六年生だった姉にとっては、父として認めたくない存在であったのに、小学校二年生の洋ちゃんにはそうは感じられなかったところに、この父の実像があったのだと思う。

 悔しい思い、辛い経験、幸福でないことそれもとてつもなく幸福から遠いこと、それに負けなければ、人は、他の人々を幸福にできるものを生み出すことができる。
 作者は、こう書いていると感じる。

 「俊介」が父の代役に指名されていたならば、「俊介」の長男が健やかに育っていたならば、「俊介」が健康で長生きしたならば、どうであったろうか。「俊介」が順調な人生を歩んでいても、元々役者としての素質があり、しかも幼い頃からの芸の積み重ねがあるから、歌舞伎役者として一流になっていただろう。
 しかし、過去に例がなく、今後も出ないであろう役者にはならなかったと思う。「俊介、五代目花井白虎」は、稀代の女形「喜久雄」と競い合い、従来の歌舞伎の役柄に今までにない解釈を加え、他の役者には想像もできない工夫を凝らすことができる歌舞伎役者として、その生涯を終えた。「俊介」が二度とでないような役者になることができたのは、御曹司の座を「喜久雄」に奪われ、幼い長男を喪い、それらを乗り越えて舞台に復帰したのに、足を失うという度重なる逆境の中で舞台に立ち続けたからだと思う。
 足を失ってからの「俊介」の舞台は、過去の名優とは異なる感動を観客に与えたに違いない。

 「俊介」の場合だけでなく、それぞれの人物の悲しみ、逆境、不幸を作者は描いている。人が嫌悪する悲しみ、逆境、不幸を見つめる作者の眼は、そこに生きる人の強さと明るさに注がれている。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第6~7回2018/6/6~6/7 朝日新聞

 姉の記憶の方が客観的なのであろう。
 これだけ姉に「嫌な思い出」をもたせた父はいったいどんな父だったのか?家族を養う稼ぎがないや暴力を振るうだけではないような気さえする。
 また、姉がこれほど言うのに、洋ちゃんには父への嫌な思い出が、そのかけらもないのは、姉が言う理由だけなのか?
 還暦間近になった洋一郎とその姉が、頻繁に亡き父の思い出について話しているらしいところも不思議だ。

 好きな台詞。今や丹波屋の若女将となった春江と、人気のお笑い芸人弁天との会話。

「いや、ほんまやで。万が一でも俺がお偉いさんなんかになってもうたら、それこそ『天下の弁天、万引きで逮捕』とか『天下の弁天、痴漢の現行犯』とかな、一番みっともない姿晒(さら)して、この世界から堂々と干されたるわ」

「弁ちゃん、ほんま変わってへんわ」

「いや、ほんまやて。唯一、王様を笑えんのが芸人やで。それが王様になってどないすんねん」
(第287回)

 ここに、下積みの暮らしから這い上がった者の心意気が感じられる。
 昭和の敗戦後世代の私にとって、弁天の芸人としての信条が新鮮なのは、上昇志向を拒否しているからだ。
 弁天と同じ世代の私は、現実の社会で、学歴も仕事上の地位も収入も上を目指して暮らしてきた。それは、王様になりようがないのに、小さな小さな王様になろうとしていたともいえる。
 弁天のように芸人でなくても、庶民、市民という位置にいるなら、王様を笑う気持ちが大切だったと思う。
 政治体制がどのように変化しても、体制は人間社会が産み出すものだから、権力を握った者はお偉いさんであり、王様である。王様がいるからには、統治される大衆がいるということを忘れないで、ものごとを見るべきと思う。

 小説『国宝』には、何か所かの名台詞がある。私の好きな台詞を挙げていく。

 
初対面の「俊介」と、「喜久雄、徳次」の間が一触即発、乱闘騒ぎになりそうになった。そのとき、「幸子」が言う。

「あー、面倒くさい。どうせ、アンタら、すぐに仲良うなるんやさかい。いらんわ、そんな段取り、でもまあ、しゃーない。喧嘩するんやったら、今日明日でさっさと終わらしといて」(第67回)

 十五六歳の男の子の行動を正確に理解している。さらに、この少年たちのもめ事の解決方法も見事だ。 
 こんな気風のいい母親にはめったにあえない。
 

 「幸子」の台詞をもう一か所。
 喜久雄の子を生む市駒の世話をしている時の言葉。

男なんてどいつもこいつも甲斐性なしで意気地なしのアホばっかりや。でもな、生まれてくる子にはなんの罪もないねん」(160回)
 
 これは、『国宝』の女性登場人物に共通する思いだろう。男は、現実にないものを追い求める存在で、現実の生活では、「いつも甲斐性なしで意気地なしのアホばっかり」なのだ。

 これは、小説の中で具現化されている。そして、この「幸子」の啖呵は、現実世界でも真実だと思う。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第4~5回2018/6/4~6/5 朝日新聞

 洋ちゃんは、姉の熱心な言い分に感化されなかった。洋ちゃんは、友達の評判に同調しなかった。洋ちゃんは、太陽の塔、団地の給水塔が好きだった。そして、洋ちゃんの記憶では、ベランダで小さく遠慮がちに舞う家のこいのぼりが鮮明だ。

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