2018年06月

 「春江」と「市駒」と「彰子」、この三人の「喜久雄」を巡る関係を考えれば、互いに憎み合っても無理はない。
 それなのに、この三人は憎み合うどころか、互いに感謝し、尊敬し合っている。
 「俊介」から、丹波屋の御曹司の位置と役者のプライドを奪ったのは、「喜久雄」だ。たとえ、「俊介」がプライドを取り戻しても、憎しみとわだかまりは、そう簡単に消えるものではない。
 それなのに、「俊介」は、「白虎」を襲名するときには、「喜久雄」への感謝を言葉にしている。さらに、両足を失った「俊介」が信頼したのは、当の「喜久雄」だった。
 父を殺した張本人の告白を聞いた「喜久雄」が、目の前の「辻村」に対して動揺と憎悪を隠し切れなかったとしても、それはむしろ自然な反応だと思う。
 それなのに、死期を悟った「辻村」の告白を聞いた「喜久雄」は、平静で、「辻村」を許す言葉さえもらした。

 むすびつくことが難しい関係の人と人とを、むすびつけてしまう。それが、「喜久雄」だった。「喜久雄」がいなければ、「喜久雄」が、歌舞伎だけを求める人間でなければ、この小説の登場人物たちがむすびつくことはない。
 「喜久雄」は、あまたの観客に喜びを与えただけでなく、周囲の人と人をむすびつけていた。

 親を殺した張本人を前にして静かな気持ちでいることができる人が、「喜久雄」だから、読者もそこに共感してしまうと感じた。

 両親の離婚の原因の多くが父にあったことを理解している現在も、思い出の父はよい父だと、洋一郎は感じていると思う。
 煙草屋のおばさんにとって、小学二年生の男の子にとって、この父は親しみやすい人だったのは間違いない。それは、この父の性格の一面だったのだろう。また、この父は、外面では人づきあいがよく、幼い子どもをかわいがる人であったと思う。

 『国宝』の主人公は、歌舞伎の舞台に立つ魅力に取りつかれただけの人間だった。
 『国宝』の全編を通して、「喜久雄」は、空っぽの人間に描かれていると感じる。
  好きになった「春江」と「市駒」と「彰子」、認知した娘「綾乃」、綾乃が生んだ孫娘「喜重」、育ての母親「マツ」、実の父のように感じた「二代目半二郎」、散々世話になった「幸子」、共に修行し互いに競い合った「五代目白虎」、兄同然だった「徳次」、「喜久雄」が大切に思う人は多い。しかし、そのだれよりも大切したのが、歌舞伎の舞台に立つことだったのは明らかだ。
 家族であっても恩人であっても親友であっても、芸の上達ためには犠牲にする者だけが、稀代の役者になることができる。芸術を創り出す真の名人は、「喜久雄」が歩んだように、運命の命じるままに求めるもののためだけに生きなければならない。
 作者は、「喜久雄、三代目半二郎」という主人公を通して、至高の芸術を生み出す者の喜びと孤独と悲しみを描いていると感じる。
 「喜久雄」は、完璧な歌舞伎役者を求め続けただけで、他の人を思いやって、歌舞伎のことを二の次にすることは、まったくなかった。人を思いやるどころか、役作りに没頭すると、周囲の人のことなど考えもしなかった。
 その意味でも、「喜久雄」は、人間として空っぽだと感じる。

 ‥‥ただ、「喜久雄」という人間の存在が、「人間国宝」の歌舞伎役者というだけなのか、というとそうとも言い切れない‥‥

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第9回2018/6/9 朝日新聞

 父についての洋一郎の記憶は、姉の言う通り、実際とはかなり違っているのであろう。そして、父についての姉の記憶も、一方的なものだと思う。それは、姉の記憶が、母の側から父を見たものだからだという気がする。
 姉は、父を攻撃する言葉ばかりを言うが、母の愚痴や弱音の聞き役をずうっと勤めるのも苦労なことだと思う。
 
 父はすでに亡くなったと思っていたが、その生死のほどはまだ明かされていない。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第8回2018/6/8 朝日新聞

 先日五十五年ぶりの中学校の同期会に出席した。参加者は顔を見ただけではまったく思い出せなかった。名前を確かめ合い、しばらく話しているうちに何人かを少しずつ思い出してきた。
 会の後半、同級だった一人の女性が、熱心に話し出した。級友の情報でも中学校でのエピソードでもなかった。話題は、学級担任教師に嫌なことをされたというものだった。中学校生活の楽しかったことは忘れていても、担任教師の嫌な思い出は詳細で鮮明だった。
 かくいう私も、その教師の嫌な思い出は、他人に話すこともないが、鮮明だ。
 親や教師が子どもに残す記憶というものはそういうものなのだろう。
 
 洋一郎が確かめようとしたこいのぼりの記憶、それが父についての思い出のすべてだ。つまり、父についてのはっきりとした記憶は、このこいのぼりのこと以外はほとんどないのだ。
 六年生だった姉にとっては、父として認めたくない存在であったのに、小学校二年生の洋ちゃんにはそうは感じられなかったところに、この父の実像があったのだと思う。

 悔しい思い、辛い経験、幸福でないことそれもとてつもなく幸福から遠いこと、それに負けなければ、人は、他の人々を幸福にできるものを生み出すことができる。
 作者は、こう書いていると感じる。

 「俊介」が父の代役に指名されていたならば、「俊介」の長男が健やかに育っていたならば、「俊介」が健康で長生きしたならば、どうであったろうか。「俊介」が順調な人生を歩んでいても、元々役者としての素質があり、しかも幼い頃からの芸の積み重ねがあるから、歌舞伎役者として一流になっていただろう。
 しかし、過去に例がなく、今後も出ないであろう役者にはならなかったと思う。「俊介、五代目花井白虎」は、稀代の女形「喜久雄」と競い合い、従来の歌舞伎の役柄に今までにない解釈を加え、他の役者には想像もできない工夫を凝らすことができる歌舞伎役者として、その生涯を終えた。「俊介」が二度とでないような役者になることができたのは、御曹司の座を「喜久雄」に奪われ、幼い長男を喪い、それらを乗り越えて舞台に復帰したのに、足を失うという度重なる逆境の中で舞台に立ち続けたからだと思う。
 足を失ってからの「俊介」の舞台は、過去の名優とは異なる感動を観客に与えたに違いない。

 「俊介」の場合だけでなく、それぞれの人物の悲しみ、逆境、不幸を作者は描いている。人が嫌悪する悲しみ、逆境、不幸を見つめる作者の眼は、そこに生きる人の強さと明るさに注がれている。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第6~7回2018/6/6~6/7 朝日新聞

 姉の記憶の方が客観的なのであろう。
 これだけ姉に「嫌な思い出」をもたせた父はいったいどんな父だったのか?家族を養う稼ぎがないや暴力を振るうだけではないような気さえする。
 また、姉がこれほど言うのに、洋ちゃんには父への嫌な思い出が、そのかけらもないのは、姉が言う理由だけなのか?
 還暦間近になった洋一郎とその姉が、頻繁に亡き父の思い出について話しているらしいところも不思議だ。

 好きな台詞。今や丹波屋の若女将となった春江と、人気のお笑い芸人弁天との会話。

「いや、ほんまやで。万が一でも俺がお偉いさんなんかになってもうたら、それこそ『天下の弁天、万引きで逮捕』とか『天下の弁天、痴漢の現行犯』とかな、一番みっともない姿晒(さら)して、この世界から堂々と干されたるわ」

「弁ちゃん、ほんま変わってへんわ」

「いや、ほんまやて。唯一、王様を笑えんのが芸人やで。それが王様になってどないすんねん」
(第287回)

 ここに、下積みの暮らしから這い上がった者の心意気が感じられる。
 昭和の敗戦後世代の私にとって、弁天の芸人としての信条が新鮮なのは、上昇志向を拒否しているからだ。
 弁天と同じ世代の私は、現実の社会で、学歴も仕事上の地位も収入も上を目指して暮らしてきた。それは、王様になりようがないのに、小さな小さな王様になろうとしていたともいえる。
 弁天のように芸人でなくても、庶民、市民という位置にいるなら、王様を笑う気持ちが大切だったと思う。
 政治体制がどのように変化しても、体制は人間社会が産み出すものだから、権力を握った者はお偉いさんであり、王様である。王様がいるからには、統治される大衆がいるということを忘れないで、ものごとを見るべきと思う。

 小説『国宝』には、何か所かの名台詞がある。私の好きな台詞を挙げていく。

 
初対面の「俊介」と、「喜久雄、徳次」の間が一触即発、乱闘騒ぎになりそうになった。そのとき、「幸子」が言う。

「あー、面倒くさい。どうせ、アンタら、すぐに仲良うなるんやさかい。いらんわ、そんな段取り、でもまあ、しゃーない。喧嘩するんやったら、今日明日でさっさと終わらしといて」(第67回)

 十五六歳の男の子の行動を正確に理解している。さらに、この少年たちのもめ事の解決方法も見事だ。 
 こんな気風のいい母親にはめったにあえない。
 

 「幸子」の台詞をもう一か所。
 喜久雄の子を生む市駒の世話をしている時の言葉。

男なんてどいつもこいつも甲斐性なしで意気地なしのアホばっかりや。でもな、生まれてくる子にはなんの罪もないねん」(160回)
 
 これは、『国宝』の女性登場人物に共通する思いだろう。男は、現実にないものを追い求める存在で、現実の生活では、「いつも甲斐性なしで意気地なしのアホばっかり」なのだ。

 これは、小説の中で具現化されている。そして、この「幸子」の啖呵は、現実世界でも真実だと思う。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第4~5回2018/6/4~6/5 朝日新聞

 洋ちゃんは、姉の熱心な言い分に感化されなかった。洋ちゃんは、友達の評判に同調しなかった。洋ちゃんは、太陽の塔、団地の給水塔が好きだった。そして、洋ちゃんの記憶では、ベランダで小さく遠慮がちに舞う家のこいのぼりが鮮明だ。

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