2018年08月

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第89回2018/8/31 朝日新聞

 どんな父であっても、父は父だから、遺骨を手元に置くのを断れない。
 母と自分たちを辛い目に遭わせて、別れてからは一度も音信のない父であった。実の父であるからこそ、その遺骨を短い時間でも手元に置くことなど考えられない。
 このどちらに洋一郎は傾くのであろうか。
 姉なら断固、そのまま道明和尚の寺で引き取り手のない遺骨として合祀してほしいと言うであろう。この姉(宏子)を冷たいように感じるかもしれないが、親子であるからこそ憎しみも強いのが人の情の一面だと思う。
 洋一郎が、父の遺骨を手元に置くとなれば、妻と相談せねばならない。今までのストーリーでは、妻(夏子)は父の死も、もちろん生前の父の部屋を洋一郎が見に行くことも知らないことになっている。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第88回2018/830/ 朝日新聞

 収骨の違いを初めて知った。私の方は、東日本の収骨方式だった。だいたいが北海道は、東日本西日本の区分けの意識があまりない。県という区分の意識すら低い。
 葬儀、火葬、収骨、墓、そういうことの慣習について詳しくなる必要はないと感じている。そのやり方の細部を、「〇〇の正しい行い方」などとうるさく言う人もいるが、意味のないことだと思う。また、正しいやり方をしなければ、霊が云々ということも私には、縁のないことだ。
 しかし、自分や周囲の人の気持ちが収まるような方法は取りたい。だから、葬儀にかかわることも慣習に沿って行ってきたし、遺骨の納めどころも、自分の家の宗派の僧侶の助言を受けながらやってきた。自分の場合も、そうなるだろうと思っている。
 洋一郎は、どんな結論を出すだろうか、今のお寺に頼んで、このまま無縁仏として納骨してください、などとは言えないと思うが‥‥

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第87回2018/8/29 朝日新聞

 父についての洋一郎の思い出は、序章にあった小さなこいのぼりをあげてくれた父であり、近所のタバコ屋さんのおばさんと気さくに話す父の姿であった。そして、そのわずかな思い出以上に、父についての悪い話を何度も何度も聞かされていたであろう。洋一郎は本人が意識しなくても、姉の宏子や伯父(母の兄)が言っていた「周囲の人に迷惑をかける人」という人物像に影響されていたと感じる。
 しかし、今、聞かされている父は、洋一郎のまったく知らない面を見せつつある。
 実際に「和泉台ハイツ205号室」を見ることで、洋一郎のこの思いが強まるような気がする。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第86回2018/8/28 朝日新聞

 父の死を知らされてからの洋一郎の気持ちについては、ぼんやりとは読み取ることができていた。今回で、はっきりと洋一郎の感じていることが伝わってきた。彼の感情、心情に共感する。

 悲しみはない。感慨めいたものも湧かない。困惑はあっても動揺というほど胸の奥が激しく揺らぐわけではない。むしろ感情は凪いでいる。どう波立てばいいのかわからない。
 
 事情はまったく異なるが、私も知っている人の死に対して、同様の感覚をもつことがあった。
 
 もうひとつ気になっていたことの一端が明らかになったようだ。それは、大家(川端久子)さんが石井信也と洋一郎とのことをどの程度知っていたかについてだ。
 
 和尚は、そう言って、「親子の縁というのは厄介なものですね」と頬をゆるめ、諭すように何度かうなずいた。

 ここには、川端久子さんが石井信也と洋一郎、宏子の別れ方を含めてすでにその事情を知っていたことが示されているのではないか。そうだとすると、川端さんは生前の父(石井信也)が、息子と娘のことをどう思っていたかを聞いているのではないか?

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第85回2018/8/27 朝日新聞

 洋一郎の家には、仏壇はなさそうだし、墓を所有していない。
 洋一郎は、大家さんに悪い印象を与えないために、話す内容や言葉について慎重に考えていたが、父の遺骨をどうするかは、まったく考えていなかったようだ。
 大家(川端久子)さんが、遺骨を物として扱っていれば、まだ洋一郎も気が楽だったのかもしれない。しかし、大家さんは、丁寧に遺骨をお寺に預けていた。それだけに、洋一郎は戸惑っていると思う。
 遺骨は、洋一郎が引き取らざるをえないだろう。その場合、仏壇も墓も寺の納骨堂もなければ物理的にも感情的にも困ることになるだろう。かと言って、墓を建てるなり寺の納骨堂を所有するなりとなれば、金銭的にも感情的にも解決しなければならないことは多い。妻の夏子の意見も聞かねばなるまい。これは、難問だ。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第84回2018/8/26 朝日新聞

 読者としての私は、姉や洋一郎と同じように、大家さんに苦情を言われないか、また、亡くなった父の遺品や遺骨のことで、面倒なことを言われないか、そんなことばかりを考えていた。
 五十代の洋一郎が老境の父に似ていたのだろうか、死を前にした父はどんな暮らしをしてどんな人々とつきあっていたのだろうか、父は一人ではあったが苦しまずに死を迎えただろうか、そういうことをちっとも思わなかった。
 私も洋一郎も現代に毒されているという気がする。
 大家(川端久子)さんの感覚の豊かさ柔らかさが際立つ。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第83回2018/8/25 朝日新聞

 大家さんは、まるで洋一郎と亡くなった借家人(石井信也)の関係を、普通の父子の関係だったように洋一郎に接している。
 生前の石井信也が身内と交流している様子がないこと、息子が近くに住んでいながら父の死を知らなかったこと、石井信也の死を知らせても娘(姉の宏子)が訪ねて来ようともしないこと、などは知っているであろうに、不思議な気がする。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第82回2018/8/24 朝日新聞

 洋一郎にも姉(宏子)にも事情はあった。だが、この姉弟が実の父から過酷な仕打ちを受けたという描写はない。それなのに、出て行ったままとはいえ、実の父の死を弔うという感情は一切ない。

 「息子さんもおつらいこととは思いますが、どうぞお力落としのないように」

 姉も父の親類も、父の死を厄介事としか受け取っていない。赤の他人である大家(川端久子)さんからはじめて父の死を悼む言葉を聞いた。
 これは、不思議なこととも受け取れるし、この場合は仕方のないこととも受け取れる。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第81回2018/8/23 朝日新聞

 思えばその頃から、私は少しずつ「お父さん」としての自分の、しっくりする居場所を見失いつつあったのかもしれない。

 洋一郎は、実の父と過ごした時間が短い、したがってその思い出といってもわずかなものだ。義父とは長い時間を過ごしているし、悪い感情をもっている様子はない。しかし、「お父さん」として慕っていたかは疑問だ。
 洋一郎には、心から「お父さん」と呼んだ経験がないのかもしれない。彼のように、父親のモデルをもたない場合だけでなく、父親の「しっくりする居場所」がある家庭は現代では少ないと思う。それは、父親がダメになったのではなく、今の社会と家族の在り方が、母親への依存度が高いせいだと思う。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第80回2018/8/22 朝日新聞

 実の父と絶縁状態になっていたことに、洋一郎と姉の方に咎められることは少しもなかったと思う。家族だけでなく、親類縁者からも嫌われているのだから、悪いのは父(石井信也)だといえる。
 だが、いくら家族に迷惑をかけた人であっても、父であったことに変わりはない。そして、その事実を父の死によって突き付けられてしまう。それが、人の死の事実なのだと感じる。
 洋一郎が思っている通り、どんな親であっても、親は親なのだから、親の遺骨と遺品を引き取るのは子だと思う。
 そう考えると、なんだか辛い気もする。人は、死ぬことによって、すべてが消えるわけではないのだ。それどころか、死によって、その人とのつながりを強く思い出させてしまうこともあるのだと感じる。

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