2018年09月

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第118回2018/9/30 朝日新聞

 母親(おばあちゃん)と娘は、娘の出産と赤ん坊を育てることで結び付いている。これは、昔もそうだったし、現代ではますます強まる結びつきだ。
 父親(おじいちゃん)は、娘の出産と赤ん坊(孫)の世話では、重要な役割はない。昔は、父から子へさらに孫へと受け継ぐべき「家」にまつわる様々なものがあった。現代では、父(おじいちゃん)から子へ受け継ぐべきものは遺産しかない。ましてや、おじいちゃんから孫へつながるものは、突き詰めると何もない。
 洋一郎自身は実の父とはつながりを見いだせないでいる。恐らく、祖父母とのつながりもないのであろう。そういう状態で、どうやって孫への情愛を持とうとするのであろうか?ただ、祖父だから、孫だからというのでは、表面的な感情でしかないと思う。
 父と子は、子が独り立ちするまで一緒に暮らす、その時間と過程が父子関係の土台になると思う。祖父と孫も、父子のつながりがあってはじめて成り立つと思う。そうでなければ、ただ、お小遣いをくれるおじいちゃん、小さいころは可愛かった孫というだけで終わる。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第117回2018/9/29 朝日新聞

 我が子の出産のときに、妻の傍にいることができなかった埋め合わせを、初孫の出産でやろうというのは、虫がよすぎる。
 出産と赤ん坊の世話では、なんの役にも立たないおじいちゃんは、せいぜい祝い金を期待されるくらいだろう。
 
 はたして、洋一郎は、孫を目の当たりにして心から喜ぶのだろうか?世間一般では、まだ若いおじいちゃんは孫に夢中になるようだ。だが、洋一郎の場合は、案外冷静でいるような気もする。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第116回2018/9/28 朝日新聞

 洋一郎の父は、一人で暮らして一人で死んでいったので、親(洋一郎にとっては祖父母)と一緒に暮らしたのは、結婚する前だけだったろう。
 洋一郎自身も、独り立ちしてからは、母と義父とは別々の生活だった。洋一郎は、血の繋がった祖父母とも義理の祖父母とも深い縁はなさそうだ。
 これは、奇妙なことだ。
 誰のことと限定しなくても、人が、自分の祖父母と親のことに無関心になり、さらには、その死をまったくの他人事と感じる。洋一郎と姉宏子の今は、そういう状態だ。
 実の父の死になんの感情も持てなかった洋一郎が、わずかに感じている。死んだ父の部屋の冷蔵庫の中のそうめんと冷や麦を見て、さらにその冷や麦を茹でながら「しんみり」したと。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第114回2018/9/27 朝日新聞

 妻と子からは、なんとなくだが疎外されている。孫の出産に関しては、まるで役立たずの存在だ。
 死んだ父の遺品整理をダラダラと続けている。父への思いは、まさにサイズの小さい死んだ父のジャッケトを着た時の感じそのまま、なんともさまにならない中途半端さだ。
 こんなどっちつかずの洋一郎を、小説の主人公にするのは作者にとって勇気のいることだと思う。
 また、こんな洋一郎を見ていると、まるで私自身を見せられているような気分になる。
 
 この現代の現実味のある父親像(洋一郎)を、淡々と描く作者の力量を感じる。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第114回2018/9/26 朝日新聞

 父が死ぬまでいた和泉台ハイツと、自分が施設長をやっているハーヴェスト多摩を比べている。洋一郎はそうするだろうか、感想99回と思っていた。
 古いアパートと有料高齢者マンションとは、建物の造り、部屋の諸設備、部屋からの眺めまでまるっきり違う。老人の一人住まいと老人向けのあらゆるサービスが完備している施設での生活との違いは大きい。だが、老人が家族とは同居せずに一人で暮らすという点は共通だ。

 四十二歳の息子にとって、これから五年、十年先に、自分が父と同居して父の介護をすることを予測するならば、入居一時金の七千万は決して高いものではないのだろう。もちろん、息子に経済力があればのことだが。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第113回2018/9/25 朝日新聞
 
 姉は、父について次のように言っていた。
 「思いつきでなんでもやるのよ。で、たいがい失敗しちゃうの」(1回)

さらに、小学六年生の洋一郎に向かって言っていた。

 「そういう性格って、父親から息子に一番しっかり受け継がれるんだから」(1回)

 
父から息子へ受け継がれるもの、それは、母から子どもへのそれと違う気もする。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第112回2018/9/24 朝日新聞

 父についての記憶がほとんどないと、洋一郎は言う。だが、こいのぼりを飾ってくれた日の父を覚えているのだから、父についての思い出がまったくないわけではない。また、別れた父がどこかで暮らしていることを思うはずだ。さらに、父を否定する言葉だが、姉からはたびたび父のことが話題にされていた。
 そういう状況なのに、実の父について今まで無関心だった。さらに、死んだ父の部屋を見て、意外な発見をし始めている。こうなってようやく、実の父のことを深く考え始めたようだ。
 実の父のことを考えるためには、姉に確かめなければならないこともあるはずだ。また、妻にも相談しなければならないことがあるはずだ。

 一人暮らしの父は、毎年毎年、自分の家族だった妻と子の誕生日を特別な日として迎え、それぞれの年齢を確かめるように書き込んでいた。この老いていく父の気持ちに、実の父に無関心だった洋一郎の気持ちよりも私には共感できる。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第111回2018/9/23 朝日新聞

 「嘘だろ‥‥」は、二回目だ。※一回目は、105回で、父の携帯に母と姉と自分が電話番号なしで登録されているのを見たとき。
 今回の洋一郎のこの「嘘だろ‥‥」は、納得できない。父の携帯に自分たちの名前が登録されていたことから、察することがあったはずだ。
 私が洋一郎なら、次のように考えただろう。
 父は、会うことがなくなっても、母と子どものことを気遣っていた。だが、「洋一郎」でなく「吉田洋一郎」と登録している。これは、何を意味するのだろうか?
 これぐらいのことは、携帯の登録から考えると思う。

 どだい、別れた父にまったくの無関心で今まで過ごしきた洋一郎の方が不自然な気がする。
 父の方は、自分に責任があるのだが、妻と子と別れたいという気持ちがあったようには見えない。そのことを、主人公は何も考えていない。これも、不自然な気がする。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第110回2018/9/22 朝日新聞

 私は、今年七十歳になった。親はすでにいない。だが、自分のこれからのことを思うとき、また、この年になって我が子のことを思うときは、親と自分とがどうだったかを思い出す。
 私が子だったときは、子が高齢になっても、親にはその認識が薄かった。八十歳の親が六十歳の子(私)を子ども扱いするのだ。子の立場のときは、ずいぶんと理不尽なことだと思った。
 でも、今は四十代の私の子は、きっと、私に対して「いつまでも子ども扱いするな」と思っているだろう。
 子にとって、親は、人生のあらゆる場面で、ひとつのモデルになる。
 洋一郎には、「父」というモデルが欠落しているのだろう。

 今までの回でも出てきたが、事情があるとはいいながら、父の顔をまったく思い浮かべることができないというのは、なんとも寂しいというか、歯がゆいというか、そんな感情なのだろう。川端さんに、似ていると言われたときの洋一郎の反応が、洋一郎の心理をよく表している。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第109回2018/9/21 朝日新聞

 石井信也の人物像として、今までは、金にだらしのないどうしようもない男という面が強調されていた。だから、洋一郎の母が離婚してさらに再婚したことによって、洋一郎も姉の宏子も安定した生活を送ることができたと受け取れる描き方だった。
 洋一郎が、片付け始めている遺品からは、家族と一緒の安定した生活を送ることのできない孤独な男というイメージが浮かんでくる。おそらく、離婚してもギャンブルから抜け出すことはできなかったと思う。ギャンブルのためなら、家族も顧みないのは確かだったろうが、だからといって、妻と我が子に愛情を持てないかというとそうでもないような気もする。
 洋一郎の父(石井信也)の晩年の十年間は、ギャンブルをしていた形跡はないが、それはこれから明らかになるのだろうか?

 もし、父が孤独好きのギャンブラーだったとしたら、洋一郎にもその血が流れているはずだ。洋一郎は、逆に安定した家庭生活と安定した職をなによりも大切にするおもしろみのない男として描かれているようだが、果たして、そうなのか?

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