「男女平等」という表現も、古くさくなった感じがする。しかし、男女間の不平等の状態がなくなってきたか、というと、そうとも言えない。  人は生まれながらに、差別されてはならない存在だ。人種や性によっても差別されてはならない。私も、そう思う。だが、具体的にそれをどう実現するかというと、いろいろな立場がある。  過去の日本語には、書き言葉にも話し言葉にも、厳然とした男女の差があった。そこをとらえて、次のような意見もある。男性と女性は平等だから、言葉遣いや文字遣いに違いがあった過去へ戻ってはならない。男女は、同じ言葉遣いをすべきだし、男性的な表現と女性的な表現という区別・差別は、なくなることが理想だ。  私は、そうは思わない。過去の女性独特の表現と、男性独特の表現は、その当時の社会の有り様を反映したものだし、日本語の歴史の一部だ。  現代でも、女と男それぞれに、言葉遣いの違いはある。それを否定したり、矯正したりすべきではないと思う。ごく一般的には、私の年代であれば、女性は男性よりも丁寧な言葉遣いが多いが、それはそのままでかまわないと思う。     『赤猫異聞』の中に、次のような表現があった。  「鍵役同心の丸山子兵衛」の言葉に次のようにある。 「人の本性に男も女もあるまい。お仙はきっと帰ってくるわ。」  また、「七之丞」の思いとして次のようにある。  人の本性には、男も女もないのです。いやそればかりか、身分も素性も、生まれ育ちの貴賤もない。  そのときばかりは、武士のほこりをふりかざして権柄ずくに生きてきたおのれが、恥ずかしゅうてたまらなくなりましてな。  罪人となり、何度も死にかけた、「七之丞」という武士の思いだけに、素直に伝わってくる。この小説の表現には、社会制度や法律の面から考えられる「男女平等」とは違うなにかが描かれている。  それは、「人の本性」というものに照らしての平等意識なのだと読み取れる。  日本の過去のある時代のある階層の人々には男尊女卑の意識があった。だが、全ての歴史的な過去に、性による差別意識があったか、というとそうは言えないのではないか。万葉集の相聞歌に、落語に登場する江戸時代の庶民夫婦に、男尊女卑の意識は感じられない。  むしろ、現代のある議会での何人かの議員の、女性は早く結婚すべきだ、という主旨の発言の方に、女性蔑視の意識が反映されているのではないか。