朝日新聞連載小説 『それから』 夏目漱石 第11回   「大助」にとって、彼の父親はまるで別世界に住む人のようだったことが分かります。「父」の言動でいちばん応えることを、次のようにいっています。 自分の青年時代と、大助の現今とを混同して、両方とも大した変わりはないと信じていること。  この感じ方は、今もあてはまります。例えば、私たちの世代が自分たちの親の世代について話すときに、同じようなことが愚痴として、よく出てきます。  なぜ、こんなにも似ているのか、不思議なほどです。 クリックをお願いします。にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
 いつの時代にもこういうことはあるのだと思いますが、それにしても考えさせられます。  第二次大戦前に生まれた世代は、戦後の混乱した社会を経験しています。また、日本の経済が発展し続けたことも経験しています。この世代が日常の暮らしの中で、大切にしていたのは次のようなことです。  学校の成績と学歴が大切だ。大企業に就職するか、公務員になる者が成功者だ。結婚し、離婚しない。結婚したら、子どもは2、3人つくる。物を買うよりは、貯蓄をする。新しい物は残しておいて、古い物はだめになるまで使う。  一方、この世代は、国家社会に奉仕する、子は親を敬う、目上・先生に従う、古くからの習慣を守る、などの精神はあまりうるさくは考えなかったようです。その代わり、微々たるものでも蓄財をすることや、より高価な不動産を手に入れることがよいことだという精神は強いと思います。  平成の今は、私たち団塊の世代が子で、第二次大戦前に生まれた世代が親になります。  そして、この団塊の世代が親となっています。そうすると、子は昭和後期と平成生まれです。  昭和から平成の期間では、日本に戦争がありません。政治制度がひっくり返るということもありません。  でも、日本の人口が増え、経済が発展し続けたものが、人口減少、経済の停滞、下降へと変化しました。さらに、高齢化社会が加速していること、個人の生活にコンピュータがかかわってきたことも、大きな変化だと思います。  平成世代の子が、昭和世代の親を次のように見ていても驚くことではないのでしょう。 親爺の如きは、神経未熟の野人(やじん)か、然(しか)らずんば己(おの)れを偽(いつ)わる愚者(ぐしゃ)としか大助には受け取れないのである。  スマホは持っているがその機能の一部しか使えない、若いころがまんをして働いたのだから老後は楽をするのが当たり前、年をとってもがんばって若いころと同じような気持ちを持ち続けるのはよいこと、などと思っている私などの世代は、子の世代からは、どう受け取られているのでしょうか。