『心』を読んで自分なりに「生まれることと死ぬこと」について考えてみました。普段の日常の出来事として考えてみると、この二つのことは違いがあります。
今の私の日常では、「生まれること」が身近で起こることは多くありません。一方、もう一つのことはかなり数多く起きています。
自分が「生まれること」「生まれたこと」について、話題にすることはまれにしかありません。一方のことは、話題にしないまでも意識に上ることはよくあります。
自分がこの世に生まれたのは、過去のことで、事実として確定していると無意識の内にとらえています。もう一つの方は、将来のこととしてとらえています。
そして、ほとんど根拠なしで、「生まれること」は、めでたいことであり、祝うべきことになっています。そして、もう一つは、哀しいことであり、忌むべきことになっています。
そして、これ以上に深く考えたり、感じさせられたりすることがあっても、だんだんに他のことに紛れて、忘れてしまいます。
『心』を読んで、感じたことも、すぐに忘れてしまうのでしょう。忘れてしまうことを前提に書いておきます。
今の私の日常では、「生まれること」が身近で起こることは多くありません。一方、もう一つのことはかなり数多く起きています。
自分が「生まれること」「生まれたこと」について、話題にすることはまれにしかありません。一方のことは、話題にしないまでも意識に上ることはよくあります。
自分がこの世に生まれたのは、過去のことで、事実として確定していると無意識の内にとらえています。もう一つの方は、将来のこととしてとらえています。
そして、ほとんど根拠なしで、「生まれること」は、めでたいことであり、祝うべきことになっています。そして、もう一つは、哀しいことであり、忌むべきことになっています。
そして、これ以上に深く考えたり、感じさせられたりすることがあっても、だんだんに他のことに紛れて、忘れてしまいます。
『心』を読んで、感じたことも、すぐに忘れてしまうのでしょう。忘れてしまうことを前提に書いておきます。
「生まれること」と「死ぬこと」を切り離して考えても、本質に近づくことにはならないと思います。この作品にあるように、親友の死というケースを想定してみると、友が生きていたときに深い交流があるからこそ、喪った痛みも存在するのです。同じ学校に通った同窓生であっても、全く交流がなければ、喪った痛みは大きなものにはなりません。
私が高校生の時に、一人の同級生が事故で亡くなりました。私が見て聞いた彼の表情や声は今も思い出せます。それは、互いに高校生として交流があったからに他なりません。
生きているからこそ、「生まれることと死ぬこと」に悩み苦しむのだと思います。不思議なことですが、この二つのことは、自分では明確に意識できないものだと思います。もし、意識できるとしても、それは今の感覚と思考とは全く別の次元のものだと思います。 はっきりと認識できて、そして、わずかでも方向づけができるのは、「生まれることと死ぬこと」ではなくて、「生きること」なのだと思います。
『心』を読んで、ぼんやりとこのようなことを感じています。