朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第121回2015/8/2

 身近にいて支えてくれる家族はいなかった。銭湯に行く金にも困っていた。住んでいる所はジムの2階の狭い部屋で仲間と共同生活だった。一日は練習とアルバイトでつぶれ、遊ぶ時間なぞなかった。
 あったのは、チャンピオンへの夢と若さだけだった。
 しかし、今の二人は、その時代に戻りたいだろう。その辛い時代が、人生で幸福な時だったと思っているように、感じた。

 失ってみると、何が大切だったか、分かってくる。
 そこには、仕事の成功や名誉や健康や支えてくれる人の存在も含まれるだろう。しかし、そういったことと別の何かがあるのかもしれない。