朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第89回2015/8/6

 食うために働くことが、働くことの意義を損なってしまうことも、食うためにあくせくすることが、無価値であることもよく分かる。だが、人は生きるためには食わなければならない。
 結婚という社会的な形式が男女の愛の本質に影響しないことも分かる。だが、他人の妻と一緒に暮らすには、彼女の夫や既成事実としての結婚と、なんらかの折り合いを付けなればならない。人は生きるためには、社会の一員でなければならない。
 「代助」と「三千代」の昔が、美しく純粋なものであったとしても、二人してそこへ回帰することはできないだろう。

 「代助」の無力ぶりと、同時に「代助」が辿り着いた境地が汚れのないものであることを感じる。