朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第134回2015/8/15

 最近は、老人ホームという呼び方はあまり使われない。介護施設、老人向けマンション、あるいは、トクヨウ(特養)、ロウケン(老健)などと細分化され、おまけに略称のまま使われている。だが、名称に惑わされてはいけない。介護、訪問医療付きマンションと呼ぼうが、自立が難しくなった老人が家族から離れて住む場所は、やはり老人ホームなのだ。マンションとアパートの違いが曖昧なのと同じだろう。

 私は、自分の最期までのある期間は老人ホームだと思っている。老人ホームでないとすると、病院かもしれない。私の癌の発見が遅かったら、病院で最期を迎えることになっただろう。自宅で、最期までの期間を過ごすというのが、最も可能性が低い。
 歩行に無理がなく自立して日常生活ができる年齢、いわゆる健康寿命と、寿命との間にはどうしてもある時間がかかる。今の制度では、その期間を病院入院で過ごすことはできない。自宅で過ごすのはある理想であろうが、それには家族の負担が伴う。
 そうなると、経済的な負担のめどが立てば、老人ホームという選択が、現実的だ。

 日本の現実が、こうなったのは次の二つの要素からだと思う。
○ 医療の進歩と、その一般化。
○ 法律と経済の変化に影響された家族形態の変化。
 衛生状態と栄養状態の改善、医学の進歩がもたらすものを多くの国民が受けることができるようになったことが直接的な要素だと思う。
 家族の変化は、倫理や道徳の問題ではなくて、国民全体の生活水準が上がったことと、相続に関する法律の影響が大きいと、感じている。

 「広岡」は、肝心の映画本編を見ながら、予告編のことを何度も思い浮かべている。それを読みながら、私はこんなことを思ってしまった。