朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第135回2015/8/16
 
 歩くのが好き、まるで恋人とのデートのように「広岡」を映画に誘う、「佳菜子」は妙な女性だ。今までも不動産の斡旋とは言い難いほど「広岡」の世話を焼いている。なによりも不思議なのは、年齢が離れ、しかも40年前の感覚しか持ち合わせていない「広岡」との会話を、いつも楽しんでいる所だ。
 「広岡」が、彼女とのいろいろな違いを無理に埋めようとしないのがよいのかもしれない。

 その「佳菜子」と行くレストランは、「令子」に紹介された店らしい。「広岡」が日本に来て頼りにした唯一の人がいる。それは、「令子」だと思う。彼の身元保証をしたのは「令子」だし、昔の仲間に会えたのも、「令子」が出発点になっている。
 「広岡」と「令子」には、過去には恋愛関係があったかもしれない。だが、それだけでなく、ボクシングを軸にした信頼関係があったのではないかと感じる。