朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第141回2015/8/23

 「広岡」は、トレーナーを引き受けはしなかった。トレーナーという仕事は片手間でできるものではない。

 私も、スポーツではないが、アドバイザーを頼まれてやったことがある。アドバイスをした時は、現役の人からは感謝されたが、長い目で見るとどうだったか疑問に思う。私にできたアドバイスは、現役時代のことを思い出してのものだった。指導者としての経験に基づいていなかった。だから、限界がある。本当に役立つアドバイスは、指導者として痛い思いもして初めて可能になるのだ。

 引退した者は、やはり現役を退いた存在でしかない。現役を退いて指導者になるには、新たに一から出直して、新人の指導者として出発しなければならないだろう。私には、そんな大変な道を歩むつもりはなかった。
 「広岡」もそういうつもりはないのではないか。