朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第110回最終回2015/9/7

 連載を読み終えた。
 毎回の感想を続けることができた。

 働くことの意義を考えさせられた。
 結婚という社会的な夫婦関係と、自然な男女の関係との違いについて考えさせられた。
 世間の良識と道徳が、時代によって変化し、それは何の影響を受けるかについて気づかされた。

 最終回では、次のことを考えてみたくなった。
 人は、一人の人として尊重される存在である。同時に、人は、家族、社会、国家の一員として生きることに意義がある。人は、この両面を常に有している。
 この両面、すなわち、個としての面と集団を支える一人としての面をもちながら、そのふたつが衝突する場面がある。そして、そのどちらかを優先させなければならない場合がある。
 明治時代には、最終的に、家族の一員であり国家の一員であることを優先させることが求められたに違いない。
 そして、そのような時代の中で、「代助」は、個としての自己を守って生きようとしてもがいている。

御前はそれが自分の勝手だからよかろうが、御父さんやおれの、社会上の地位を思って見ろ。御前だって家族の名誉という観念は有っているだろう。

 これが、社会に認められた観念だ。そして、ここに疑問をもつ人は少なかったと思う。それは、現代でも通用すると思う。

父も兄も社会も人間も悉く敵であった。彼らは赫々たる炎火の裡に、二人を包んで焼き殺そうとしている。代助は無言のまま、三千代と抱き合って、この燄の風に早く己れを焼き尽くすのを、この上もない本望とした。

 夏目漱石は、「代助」と「三千代」に「本望」を遂げることをさせなかった。
 ここには、愛を至上なものとするよりも、個の存在の重さを主張している姿勢を感じる。

代助は、自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗って行こうと決心した。

 進むべき方向も、進むための方法も微塵も見えない。が、先へ進もうとする意思を感じる。それは、社会を捨てた二人だけの逃避行ではないと思う。
 今までと異なる境遇と生き方であったとしても、「代助」は、明治という時代の「電車」に「乗って行こう」と「決心した。」のではないだろうか。