朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第162回2015/9/13

 「広岡」は、思い付きで、言っているのではないだろう。「元ボクサーのための老人ホーム」のような構想があるのかもしれない。

 もし、私が一人暮らしで、その上に住んでいる所を立ち退かなければならないとしたらどうするだろうか。
 賃貸アパートを探すしかない。年齢だけでなく、身体面からも仕事をするのは無理だから、収入は限られる。肉親と知り合いがいるが、そういう人の所で一緒に住むということは考えられない。
 賃貸アパートだと、ある程度の設備が整っていても、防音や広さは不十分だ。隣室のことを考えると、まるで入院中のようにテレビの音にも気を遣うことになりそうだ。話し相手もなく、終日その部屋にいるかと思うと、今とはずいぶんと世界が変わりそうだ。
 一軒家で夫婦で暮らせることの幸せを改めて感じる。同時に、今の暮らし方がいずれはできなくなるので、そのための準備をしなければ、とも思った。