朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第171回2015/9/26

 私の狭い経験の中でも、頭がいい、ということはどういうことかについての変遷がある。
 私の学生時代は、圧倒的に学校の成績が、頭のよさの指標だった。しかも、その成績は、試験における総合得点と順位だった。だから、順位がはっきりする母集団の中での頭のよさであった。例えば、中学校ならば、学級の中で、学年の中で、頭がいいかどうかが位置づけられた。
 次の世代でも、やはり学校の成績が指標となった。しかし、偏差値なるものが導入されて、母集団がぐんと広がった。大学受験に際しては、全国の同年代の中で、位置づけがなされた。そして、このころからは、学校の成績も筆記試験の結果だけでなく多様化し始めた。
 現在は、いろいろに言われてはいるが、学校の成績と試験の結果が、現実的には頭のよさを判断する指標になっていると思う。しかし、それだけではないことがだんだんに常識化していることも確かだ。
 記憶していなくても、知識を活用できる時代になった。旧来の学校制度が機能しなくっている面も明らかになってきた。
 優れたスポーツ選手の条件は、高い運動能力だけでないことはよく知られるようになった。また、優れた学者の条件が、学業成績や知能だけでないことも理解できる。
 それでは、頭がいい、とはどういうことか。今回ばかりは、真田の言っていることに、私はまだ納得いかない。ただ、頭がいい、ということは筆記試験のように静的な場面で発揮できるものはその一部だということは分かる。
 
 会話の中で、問われたことに、はっきりと答えられれば、頭がいい証拠だろう。