朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第176回2015/9/28

 試合で勝者になれば、チャンピオンの座を守ることができ、今後もボクサーとして活動できる。だが、賭けでは敗者になる。試合で敗者になれば、チャンピオンの座を奪われて、世間からも冷たく扱われるだろう。だが、賭けに勝ち、大金を得ることができる。
 年齢や体力的に限界が近いボクサーにとってみれば、チャンピオンの座にしがみつくことよりも、その後の生活の安定のために現金を手にする方を選ぶのが、得な選択だ。
 しかし、ボクサーとしてのプライドは確実に傷つく。ボクサーとしてだけでなく、人としての生き方を自ら傷つけることになる。ジャックだけでなく、こういう立場に立たされた人が、この精神的なダメージに耐えることができるのだろうか。
 このヘミングウェイの小説の試合の流れからいくと、相手のウォルコットと暗黒街の賭け屋の企みを利用して、ジャックが反則負けになりそうだ。暗黒街の賭けだから、選手本人が賭けることも可能なのかもしれないが、それよりは、暗黒街の賭けだからすんなりとは大金を渡さないことの方がありそうだ。

 ジャックには、試合に勝ちプライドを守るという選択肢はない。それを最初から捨てて、試合に臨んでいる。しかし、金のためとはいえ、ジャックには相手のローブロウに耐えるだけのボクサーとしての体力と技術と精神力が残っていた。それは、ジャックにとっては計算外のことだった。
 ジャックの負けは、事前に準備された計画そのものだ。ジャックの考え方がずるいとか正しくないとか言いきれないが、物事は計算や計画通りにはいかないと思う。