朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第197回2015/10/20

 広岡はやはりこまめに自炊していた。
 男の一人暮らしで、自炊を本格的にやるというのは珍しい。広岡は、今や完全に仕事をしていない引退した男だ。その広岡が、家事をこなし、食事を調理する際には喜びさえ感じている気配を感じる。そういう境遇にある男の暮らし方として、広岡の自炊に興味を感じる。
 一般的には、老いた男の一人暮らしは、飯は外だし、掃除洗濯などはごくたまにしかしないとなるだろう。だが、それでは、あまりに情けない。しっかりと取り組んでみると、家事は奥が深くおもしろい。

 味をつける前の肉や魚をネコの餌とするところなぞは、私と同じ感覚を感じる。私も、ネコにもイヌにもペットフードが最高の餌だとは未だに思えない。だいたいが、ネコにやる食べ物のことを、ゴハンというのさえ、抵抗がある。餌という明確な語があるのだから、それでよいと思っている。
 ただし、家のネコは、療法食のペットフードだし、それを注文した動物病院からは、「○○ちゃんのお食事が届きましよ。」と電話がかかってくる。それを、あえて「餌を受け取りに行きます。」などとは言わない。