朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第259回2015/12/23

 この八つの言葉の大切さは、私も身に沁みている。
 それなのに、真田会長のように年下の人たちに教えたことはない。なぜなんだろう。当たり前のことすぎると思ったのだろうか。それとも、こんなことを言うと説教じみた話になると思ったからだろうか。
 その両方があったと思うが、ひょっとすると、この八つの言葉を、常に口にするだけでは、集団生活は円滑にいかないと考えていたからかもしれない。
 言葉だけではなく、気持ちの問題だと今でも考える。だが、若いころよりは今の方が、この八つの言葉の効用が信じられる。逆説でいえば、どんなに仲間を大切に思っていても、この言葉を口にしなければ、集団生活は円滑にいかないことが、経験上よく分かるようになった。

「おはよう、おやすみ。いただきます、ごちそうさま。行ってきます、だたいま。ありがとう、ごめんなさい。この八つの言葉が言えれば、集団生活は円滑にいきます。これだけは常に口にしてください」

 書き写して、気がついた。八つの言葉は、二つずつのセットになっていたのだ。特に、ありがとう と ごめんなさい をこうやって、「、」と「。」で表わされると、その意味合いがよくわかる。作者の細かい表現にまた感心した。