朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第287回2016/1/21

あのジムの合宿所での五年間について、あの頃と言っただけで通じる相手がまだいるということはすごく幸せなことなんだよ

 こういう風に思ったことはなかった。でも、その通りだ。
 こう語る星と女房の年月は、夫婦にとって幸せなものだったと感じる。だが、それは過ぎた年月の一面でもある。
広岡が立ち寄った小料理屋の女将の目には、星は女房を辛い目に遭わせた元ボクサーの男と映っていた。それは、女将の誤解ではなくて、星夫婦の別の一面であったと思う。


果たして、自分はその時間を取り戻したいと思っているのだろうか……。

 読者として、広岡のこの思いがよくわかる。彼が昔を取り戻したいだけなら、もっと違う行動を取ったと思う。