朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第348回2016/3/23

 藤原に注目した。

翔吾が広岡に訊ねると、かわりに藤原が答えた。

 藤原はうれしくなって、広岡を差し置いて答えてしまっている。

「おまえは、俺たちのパンチを身につけたいんだな」

 こういう切り込む発言は、いつもは星がしている。ここでは、藤原が翔吾の気持ちの変化を感じ取って、それを確かめているのであろう。
 藤原は、翔吾を病院へ連れて行った頃から、心情的にこの若者を受け入れている。説教するような口調も彼だけだ。それはこの若者をかわいがっている気持ちの表れでもある。

広岡がつぶやくと、藤原も困惑したようにつぶやいた。
「ボクシング‥‥‥」

 感覚で行動を起こし、好き嫌いと、できることとできないことをはっきりさせるのが藤原の性格だと思う。それだけに彼の「困惑」ぶりが伝わってくる。
 独特のジャブやクロスカウンターを教えてほしいなら、分かる。だが、ボクシングを教えてほしいとなると、どんな目的で、教えてほしいのかをはっきりさせないと返事はできないと思う。藤原はそのことを感覚的につかんでいるのであろう。
 そして、広岡もそこを考えているのではないか。