いつも心のどこかに存在し続けた不安を、乗り越えることができた。
 押しつぶされそうになっていた不安は消えてはいない。その不安から逃げる方法も見つからない。だが、宗助は、不安に悩み、不安に怯える境地から一歩を踏み出すことができた。
 この小説のどこから、上のように感じたかと問われても、私にはうまく答えられない。だが、作品全体からそう感じる。

 宗助の禅寺での行動は情けないほどのだめな修行ぶりだった。修行を終えても、それが何の成果も上げなかったことは、はっきりと描かれている。それなのに、私は、禅寺から戻った宗助に変化を感じた。
 それは、悟りや座禅の効能ではない。宗助の心には、何をやっても不安からの逃げ場はない、何に救いを求めても救ってくれるものはない、というあきらめが生じたように思う。
 不安から逃れられないとあきらめることが、不安を乗り越えることにつながる、というのは矛盾している。しかし、私はそう感じるし、あきらめに身を任せた宗助に励まされさえする。

 あきらめの心を抱えての宗助の行動は、普段通りの暮らしだった。
 宗助の普段の暮らしは、御米と二人で生きる暮らしだ。金銭や出世や世間の評判にとらわれない暮らしだ。弟小六や若い禅僧や家主の坂井とは、上下関係や損得や主義主張に関係なく付き合っていく暮らしだ。
 そして、職場を解雇されなかったこと、給料が上がったこと、弟の学費の目途が立ったことが宗助と御米夫婦の気持ちを明るくした。

 愛する人と結ばれても、それが幸福につながりはしない。
 だが、愛する人と伴に過ごす日常は何よりも価値のあるものだ。
 禅寺での日々から、日当たりの悪い崖下の家に戻った宗助の暮らしは、私にこのような感想を持たせた。