朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第365回2016/4/9

 佳菜子が、たまにチャンプの家にカレーを食べにくるだけの存在で終始するわけがない。

 広岡の気持ちに久しぶりに令子が登場した。

 翔吾の人物描写に面白味がない。彼のボクシングを育て上げた彼の父に触れられていないからだ。また、翔吾が、佐瀬一人からのコーチに素直に従っているように描かれているせいだ。

 
 「共同生活」という言葉さえ聞かなくなった。
 家族だけの家にそれぞれの個室がある。新しいアパート、マンションは、それぞれの住人がなるべく接触しなくてもいいように造られている。酒場でさえ、個室や御独り様スペースが増えている。
 TV番組で東日本大震災の被災者の方々のドキュメンタリーを観た。仮設住宅にいたが、被災者のための新築アパートに移住した方の言葉が印象に残っている。
 「仮設にいたころはまだ近所と付き合いがあった。ここは、仮設よりきれいで便利だけど、体のいい刑務所だ。」
言葉はその通りではないが、このような内容をおっしゃっていた。

 だからといって、若いうちから共同生活を経験すべきとは思わない。また、現代に適した共同生活の場を作るべきとも思わない。
 もし、孤立しつつある日本人が、共同生活を求める方向に転換するなら、孤立より共同が快いなら、意図的に何をしなくとも、そうなると思う。
 その意味でも、若者へのボクシングのトレーニングだけでなく、もっと四人の老人の共同生活の日常を描いてほしい。