朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第379回2016/4/24

 広岡は、キッチンで翔吾一人へ向かって話し、その後でワインを飲みながらみんなにジムの移籍の話をする展開になった。
 翔吾へは、いつまでもトレーナーに頼るなということを教えるのかと思っていたが、そうではなかった。トレーニングはなぜするのかについての考え方を教えている。

 次回以降に、翔吾の口から、ジムの会長である彼の父との事情が語られるだろう。そして、それに対しての佐瀬、藤原、星の反応も見えてくるのだろう。


「そう、料理もアイロンかけも、ボクシングのトレーニングと同じだ。家事が難なくできれば、日常というリングで自由に振る舞えるようになる。」

 そうか、老いた男の生きづらさの理由がここにあったのだ。現役時代は家事をすべて妻に転嫁してきた。夫婦が年を取るとその形態では日常が成り立たなくなり始める。そして、男が独りになると、たとえ経済的に不安がなくとも日常生活がきわめて不安定になる。それは、日常生活の自由度が落ちるということなのだ。
 私の場合だって、妻がいなければ冷蔵庫の冷凍室に何があるか分からない。これは、自分の家の冷蔵庫を自由に使えないということだったのだ。