夏目漱石『吾輩は猫である』第21回朝日新聞連載小説2016/5/4
「客」が、「先生」とのエピソードを語る。それを、「主人」が聞いている。その「客」「先生」「主人」の言動を、「吾輩」が聞き、その全てを批判的に観察している。
他人をだましておもしろがる「先生」のやり口は感心できない。「先生」のやり口の片棒を担いでいる「客」は、他人をだましている主犯格ではないが、無責任である。そして、その二人と「ボイ」の話をおもしろがって聞いているだけの「主人」は、より無責任だと思う。
このたわいもないようなエピソードは、恐い内容を含んでいると感じる。
「客」は自分のことは棚に上げて、「先生」と「先生」にだまされた「ボイ」を批判的に見ている。「主人」は、自分もだまされたことがあることを自覚しながら「先生」と「客」と「ボイ」の行動を愚かなものして、「アハハハ(略)」と笑い飛ばしている。
これは、現代の世の中の事件に対する私などの立場そのものだ。例えば、大規模な詐欺事件の報道を耳にした際に、だました犯人を批判するだけでなく、だまされた被害者を批判的に見てしまう。そして、たいして怒りも同情もせずに、たちまちその事件を忘れてしまう。
「先生」のような言動は取らないとしても、「ボイ」にも「客」にもなることはある。「主人」と同じ立場にはしょっちゅうなっている。知らないこと分からないことを、知らない分からないと、正直に表明しない精神構造の罪を知らされた思いだ。
「客」が、「先生」とのエピソードを語る。それを、「主人」が聞いている。その「客」「先生」「主人」の言動を、「吾輩」が聞き、その全てを批判的に観察している。
他人をだましておもしろがる「先生」のやり口は感心できない。「先生」のやり口の片棒を担いでいる「客」は、他人をだましている主犯格ではないが、無責任である。そして、その二人と「ボイ」の話をおもしろがって聞いているだけの「主人」は、より無責任だと思う。
このたわいもないようなエピソードは、恐い内容を含んでいると感じる。
「客」は自分のことは棚に上げて、「先生」と「先生」にだまされた「ボイ」を批判的に見ている。「主人」は、自分もだまされたことがあることを自覚しながら「先生」と「客」と「ボイ」の行動を愚かなものして、「アハハハ(略)」と笑い飛ばしている。
これは、現代の世の中の事件に対する私などの立場そのものだ。例えば、大規模な詐欺事件の報道を耳にした際に、だました犯人を批判するだけでなく、だまされた被害者を批判的に見てしまう。そして、たいして怒りも同情もせずに、たちまちその事件を忘れてしまう。
「先生」のような言動は取らないとしても、「ボイ」にも「客」にもなることはある。「主人」と同じ立場にはしょっちゅうなっている。知らないこと分からないことを、知らない分からないと、正直に表明しない精神構造の罪を知らされた思いだ。