朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第411回2016/5/27

 どう考えても佐瀬の指示は正しい。このまま行けば、よほどの不公平なジャッジでない限りは、判定勝ちだ。復帰第一戦をノックアウト勝ちなどというのは、派手なだけで上を目指すボクサーには大きな意味はない。それよりは、最後のラウンドまで、足が止まらないスタミナを試す方が大切だと思う。

 ――何かの許可を求めている‥‥。
 広岡は、翔吾の眼を見つづけ、そうか、と理解した。

 広岡の判断が間違うはずがない。
 だが、インサイド・アッパーを使いたいなら、なぜセコンドにいる藤原に許可を求めないのだろう?

 
 なんのために?

 広岡の判断は間違っていないと思うが、この後の推測は二つとも納得がいかない。
 「リングの上で完全に自由であること」とは、この試合の場合は、相手を倒すことではなくて、むしろアウトボクシングで、自在に相手のパンチを封じ込めることではないか。
 「勇気というもの」は、劣勢になり追い込まれたときに発揮するものだと思うが、今はそういう状況にないはずだ。