朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第419回2016/6/4

――これが翔吾を不幸にすることにはならないだろうか‥‥。

 翔吾にボクシングを教えるようになって、仲間たちもより元気になった。翔吾はみるみる上達し、復帰第一戦を見事にノックアウト勝ちした。しかも、そのパンチは広岡のうなずきに導き出されていた。
 それなのに、広岡の不安は消えない。


私はあなたに二度負けました。

 翔吾の父は、広岡のような強いボクサーではなく、広岡に完敗した。息子翔吾に自分の夢を託したが、ある時期から息子に完全に背を向けられた。
 そして、そんな息子を生き返らせたのは自分ではなく、かつて自分を敗者にした広岡だった。翔吾は、復帰戦に勝利した今も父親をボクサーとしては尊敬していないだろう。
 だが、彼にはジムがあり、家族がある。翔吾が父のジムに所属していなくても、黒木会長の息子が翔吾であることに変わりはない。


いえ、勝ったのは黒木さんです。

 広岡は、昔の仲間からも翔吾からも尊敬され、慕われている。だが、深刻な病をかかえ、子どもも家族もいない。