朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第430回2016/6/16

そのひとつひとつにメールで返事を書きながら、もうほとんど自分のことにように思えないほどすべてが遠くなっていることに驚いていた。

 広岡は、アメリカに戻ることもホテル事業に戻ることも、もうないとはっきりと意識したのであろう。彼が、自己の終末を意識して日本に戻ったことは描かれている。しかし、いつ発作が起こってもおかしくないという状態なのか、それとも余命が宣告された状態なのかは、描かれていない。
 どちらにしても、広岡の意識では、ボクシングをやめた後心血を注いだホテル事業にもう未練はないということだ。
 それは、すべてのことから身を引くということではないと思う。今の広岡は、残された時間でやり遂げたいことが徐々に明確になってきたのではないか。


(略)令子が少し声を張り上げるようにして言った。
「とても素敵なお住まいね」

 令子の話は、チャンプの家の誰かについてのものかと予想したが、令子自身と真拳ジムのことかもしれない。