朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第490回2016/8/16

 令子がなぜ真拳ジムを引き継いだのか、ずうっと疑問だった。やっと、その理由がわかった。

「(略)やっているうちに、もしかしたらこれこそ自分のやるべき仕事だったかもしれないと思うようになってね。(略)」

 これこそ、その理由であり、これ以外にはないのであろう。

 職業としての弁護士とボクシングジムの会長では、その収入の安定度や社会的な信頼度では差がある。彼女は、そういう社会一般の評価を度外視して、「自分のやるべき仕事」を選んだのだ。


 広岡が、日本に戻って来た理由も、はっきりしなかった。

「(略)未来への希望もなければ、たったいまの欲望もない。(略)わずかに残っていたのは、もし日本に帰ったら‥‥という自分でも得体の知れない胸のざわつきだけでした。(略)」

 これこそが、日本に戻って来た理由であった。
 
 広岡と令子の言葉には、共通点がある。
 周囲の期待や自分が目標としてきたこととは別のやるべきことを求めている点。そして、自分のやるべきことが、ボクシングに関わる点。


 令子の次の言葉は、当たっていると思う。

「でも、いまは仲間がいるじゃない。黒木君や佳菜子ちゃんもあなたを慕ってる。それ以上、何が必要だと言うの?」

 もしも、広岡に必要なことがあるとしたら、令子への気持ちを過去に遡って伝えることだと思う。