朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第500回20168/8/26

 試合の最中だが、令子の言った言葉が私の頭から離れない。

「でも、いまは仲間がいるじゃない。黒木君や佳菜子ちゃんもあなたを慕ってる。それ以上、何が必要だと言うの?」 490回 

 広岡の今を言い当てていると思う。
 打ち込んできたボクシングでは、チャンピオンになれなかった。しかし、40年後の今、若いころのボクシング仲間と信頼し合って共同生活をしている。その共同生活とボクシングを通して、二人の若者と知り合った。広岡には、二人の若者に何かを教えたなどという気持ちはない。しかし、黒木と佳菜子の立場からいえば、広岡に人生の指針を与えられたと思っているだろう。
 ボクシングに打ち込んでいたことが、ホテルの仕事に打ち込んできたことが、その成果を見せている。人生の終盤にきて、広岡に満ち足りた時間を与えていると思う。