朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第502回2016/8/28
 
 クロス・カウンターでも決着がつかない。
 残るラウンドは、十一と十二ラウンドのみ。両者最後のラウンドまで倒れなければ。
 

 広岡の立場に私がたてば、次のようにしただろう。
○共同生活はごめんだ、と言う星を説得する。
○佳菜子に、家族のことや生い立ちを尋ねる。
○翔吾に、大塚との試合をさせない。それができなくとも、眼のことを知れば、世界チャンピオンへの挑戦をやめさせる。それもできなければ、第九ラウンドでタオルを入れる。
 それより前に、日本へ戻ってすぐに最新の治療が受けられる病院へいくだろう。
 広岡は、そうはしなかった。

 見つづけること。たぶん、自分にできるのはそれだけのはずだ‥‥。(501回)


 
広岡は、小説の中の架空の人物。現実の世界はこうはいかない。
 でも、私には、現実の一部しか、現実の表面しか見えていない。
 小説は、作家にしか見ることができない現実の奥底を、読者に見せてくれる。