朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第504回2016/8/30その2

 広岡が、日本を出た理由がわかったような気がする。
 広岡への不公正な判定が、日本を離れた真の理由ではなかった。広岡は、日本にいては、真田と周囲の人たちの願いを叶えることができないのを悟ったのだ。だから、令子の愛を受け入ることができなかった。
 過去のこの思いは、令子に伝わったのではないか。二人が歩いたあの「花の道」で。
 だが、四十年後の今、真田と仲間の願いであった真拳ジムから世界チャンピオンを出すことを叶えることができた。それは、父の遺志を実現したいという令子の今の願いでもあった。
 広岡は、令子の愛を受け入れることができなくて、その後の人生で自分と他の人との間に常に距離をとって生きてきた。ところが、自分の若いころを思わせる翔吾に出あい、ボクシングを通して、翔吾を心から受け入れることができた。

そのとき広岡は、自分が他者に対して、その存在のすべてを無条件に受け入れたのは初めてのことだったのではないかと思った。(第469回)

 
 翔吾は、視力を回復しても、二度とボクシングはできないと思う。だが、翔吾本人も佳菜子も、それで落胆はしないと思う。なぜなら、翔吾はどんな逆境をも自分で乗り切っていける力を得たから。