朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第504回2016/8/30 

 勝利は、次のことを意味すると感じた。

 広岡は、真田会長の願いを実現させた。真拳ジムから世界チャンピオンを出したのだ。
 しかも、その勝ち方は、インサイド・アッパーでもクロス・カウンターでもなかった。僅差の判定に持ち込めたのは、第九ラウンドの広岡の叫び
「踊れ!」(501回)
だった。
 大塚のスピードとテクニックは、真田会長が理想としてボクシングだった。大塚の完璧なアウト・ボクシングを身に付けていなければ、翔吾が判定で勝つことはできなかった。

 広岡は、藤原と星と佐瀬の生き方へ決して口を出さなかった。ただ、家を準備し、彼らと昔と同じように暮らしただけだ。可能であれば、これからもそうするだろう。
 広岡は、佳菜子に対しても、何かを教えたり世話をしたりはしなかった。佳菜子の生い立ちを知っても、今までと同じように、彼女の生き方を見つづけている。 
 広岡は、トレーニング中も翔吾のボクシングを、見つづけた。教えているのは短い期間に過ぎなかった。

 だが、広岡は黙って試合を見つづけた。
 見つづけること。たぶん、自分にできるのはそれだけのはずだ‥‥。(501回)


 視力を失うかもしれないが、翔吾の戦いたいという思いを否定せずにただ見つづけたのだ。これは、戦いをやめさせるよりも苦しい選択だ。
 そして、その選択の結果が勝利としてもたらされた。
 なぜ、そうできたのか。それは、大塚に勝利した翔吾を、次のように見ていたからだと思う。

絶望的な状況の中でひとり危険な海に乗り出し、ひとりで航路を見つけ、ひとりで嵐を乗り切ったからだ。(470回)
 

 
広岡の今までの人生と今の生き方が、この勝利に結びついている。



 翔吾に付き添ったのが佳菜子でないのは、若い二人の広岡への信頼からだろうか。
 不安なのは、広岡自身の検査と治療が手遅れにならないかだ。