朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎最終回2016/8/31

 ボクシングは、最終的には勝ちと負けしかない。勝ちに喜びを見出さなければ、勝負は成立しない。
 それは、正当な勝者の誕生には、敗者が存在することを意味している。敗者も全力で戦ったことは間違いない。
 勝者には、勝った喜びがある。しかし、勝者中の勝者、チャンピオン中のチャンピオンには、勝つ喜びを超えるものがあることを、『春に散る』は描いている。

 それは、何か。原作中の文章を引用する以外にはない。が、私の感想としては、次のようなものだと受け取った。
 何からも制約を受けす、誰からも束縛されない場を体験すること。そこには、勝ち負けを超えた勝負の世界の至上の場があった。

 「この眼は、あの試合で、見たいものを見ましたから」
 その言葉を耳にした瞬間、広岡に、体の芯を何か得体の知れないもので刺し貫かれたような戦慄が走った。
 翔吾は、あの試合で、見たいものを見たという、たぶん、あのような場で、あのような試合をした者にしか見えないものを、翔吾は確かに見たのだ。
 「いつだ」
 「十一か、十二ラウンドのときでした」
 「何が見えた」
 「誰もいないリングです、レフェリーも、バイエフも、俺も、誰もいない‥‥」

 
この体験が成り立つには、前段があった。

 翔吾がチャンプを見ながら言った。
 「俺も、チャンプみたいにリングの上で自由になれるでしょうか」
 「なれるさ」
 すると、翔吾が月に眼を向けて言った。
 「自由の向こうには何があるんでしょう」
 それは、たぶん月の裏側のように自分が見られなかったものだ、と広岡は思った。リングの上で本当に自由になった者には、いったい何が見えるのだろう‥‥(494回)

 月明かりの下でのマス・ボクシングの後の翔吾と広岡のやりとりだった。二人は、この時から「自由の向こうに」ある「何」かを求めていた。

 『春に散る』は、今までに幾度か、勝者が敗者になることを描いている。
 真田が読ませたヘミングウェイの短編小説では、勝ちと負けの紙一重さが描かれている。劇的な逆転勝利をした中西は、その勝利によって自分のスタイルを失った。バイエフは、予想外の勝ちで世界チャンピオンになったがゆえに翔吾に敗れた。
 また、敗者が勝者になることも描いている。藤原も佐瀬も星も敗者だ。だが、今は負け続ける敗者ではない。
 広岡こそ、野球で、ボクシングで敗者であった。

 広岡は敗者ではなかったと、私は考えたかった。だが、最終回で描いているものは、そうではなさそうだ。
 『春に散る』は、翔吾が見たものを描いている。広岡は、それを見ていない‥‥。