どんな破天荒な小説にも、現実世界を生きていくために役に立つことが含まれている。

 親子・夫婦を土台とする家族の拒否

 広岡には、父も兄弟もいる。藤原と星は結婚していた。翔吾の両親は健在で近所に住んでさえいる。
 しかし、見事なほど家族を基盤とした人間関係は出てこない。それぞれの家族のことを気にかけていたのでは、チャンプの家の物語は成立しない。
 では、昔の仲間との共同生活が夢物語かというと、そうでもないと思う。逆に、現実的に藤原、星、佐瀬のような境遇の男の老人と、親子だから夫婦だからといってどこまで一緒に暮らせるだろうか。親子、夫婦だからというだけで、一緒に暮らしていくのは難しい。
 チャンプの家の暮らしには、いくつかの仕掛けがある。生活費の分担、家事の分担、個々の独立を守る住居形態、相互に深入りをしない人間関係、そして、共同生活の技術と意識を構成員が身に付けていること。
 家族による暮らしの経験しかない者にとっては、不可能な暮らし方だ。

 現実の超高齢化社会では、親子夫婦を土台とした家族関係はもはやその機能を発揮することができなくなっている、と気づかされた。


 子育て・教育を介しない世代交代

 
佳菜子は、感覚だけで広岡を信頼した。だが、何も相談しないし、打ち明けもしない。広岡は、佳菜子へ感謝はしたが、それ以上のものはない。
 翔吾は、広岡にボクシングを教えてほしかっただけだ。広岡は、積極的に教えはしなかった。だが、翔吾の存在を無条件で受け入れることができた。それは、ボクシングという共通項があったからで、ボクシングについても年齢や経験にこだわらない関係性が見えた。
 年長で尊敬すべき人という意識は、若い二人、翔吾と佳菜子にない。
 育てたい、教えたいという意識が、老人、広岡にない。
 老人の方にあるのは、自分にできるのはただ見つづけるだけという気持ちだ。
 年長者は尊敬すべき、育ててもらった恩に報いるべきという価値観は、通用しなくなっている。

 現実の超高齢化社会の老人と若者の間では、親子、先生と生徒、師匠と弟子、先輩と後輩ということが、互いの信頼を築く要素にならなくなっていることに気づかされた。


これで、『春に散る』の感想を終わります。
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