杏について

 この小説は、杏の暴力で始まり、杏の二股の恋で終わっている。しかも、二股の相手は、浮気者の高校生と、四十過ぎの妻子持ちだ。こう見ると、杏は、破滅していく若者でしかない。だが、そうだろうか。

 母がのどを切って血まみれになっている場面を語っているのは杏だけだ。父の死が読者に明かされたのは、杏の口からだ。この作品のストーリーを語っているのは、明らかに杏だ。

 私は、暴力はいけないと思う。どんな場合にもいけないと思ってきたし、それは社会からも肯定される。しかし、暴力がなくなった世界を見たことはない。
 怒りから暴力を振るうことは悪だと思ってきた。だが、怒りそのものは、人間の正常な心情だし、世の中の不正義を正す原動力にもなる。それなのに、暴力を安易に否定すると、怒りそのものを抑えてしまう。怒りの心情は抑えても抑えてもエネルギーとしては残り続ける。抑え込まれた怒りは、別のはけ口を求め続ける。
 杏は、怒りを暴力で表す。怒りを力による攻撃に変えることは、憎むべきことなのか。杏を見ていると、感情が激した時には、それを力で発散させるから自己を保つことができるのだろうと感じる。
 杏の暴力を肯定は決してしない。だが、不条理なことに対しての力の行使が悪なのか、考え続けなければならないと感じた。


つまり杏は、時間が経つと人は別物に変化する。そこに連続性はない、と考えているのだ。(95回)

 科学的に細胞レベルで見ると、人間の体はどんどん更新されていることが実証されていると聞く。
 ほとんどの人が、成長期には、体が年単位で大きくなることを経験している。そして、老齢期には、走る力や視力が年単位で下降することを経験する。人の体が、時間が経つと別物になるということは間違いではない。
 以前は、体は変化しても精神は変わらないと考えられていた。現代は、感覚や思考力も、体が変化すれば変化することが知られてきた。「別物に変化する」は、言い過ぎかもしれないが、人間の精神は変わらない、あるいは変わるべきではないと考えるのは、一面的な考え方だと思う。
 杏のこの考え方は、人間を見る視点として、非常に興味深いと思う。

 晴臣はどうしようもない浮気者で、自制心のないダメ男だ。
 晴臣は、彼の母親の財力がある限りは、杏に何でも与えてくれる。晴臣は、浮気はするが、杏のことを誰よりも大切だと思っているし、誰よりも大切にしてくれる。
 広岡さんは、杏の年齢に近い息子のいる既婚者で、倫理観のないクズだ。
 広岡さんは、杏のことを心配したり、いろいろと指図をしたりしない。広岡さんは、杏が求めれば求めに応じるし、杏が拒めば無理強いはしない。広岡さんは、杏が困れば、彼ができる範囲で助けてくれる。
 杏は、晴臣と一緒にいることが嫌になれば、広岡さんのところへ行くだろう。そして、また、晴臣のところへ戻ることもあるだろう。杏は、晴臣と広岡さんに代わる人を見つけることもあるだろう。

 杏にとって、姉は保護者ではなくなった。今度は、姉とは、姉妹としてつながっていくだろう。

 私は、人を、既成の倫理観から見過ぎていたのだと感じる。また、人を、変化しないことを前提に見ていたのだと感じる。杏のような人物で描かれると驚いてしまうが、人は変化し続ける存在であることは、日本の古典文学の中で繰り返し語られていたのを思い出した。