朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第32回2017/2/2

 喜久雄が父の威光を笠に着て、好き放題に振舞ったのは、力関係からいえば自然の成り行きだったろう。だから、父の威光が消えれば、今までへいこらしていた連中がたちまち手の平を返すのも、至極当たり前なのだ。

「……自分の親父、撃ち殺されて、敵討ちもできん腑抜け息子は、呑気に映画鑑賞や? 世間で自分がどれだけ笑われとるか知らんとや?(略)」

 こういう啖呵を久し振りに聞いた。聞いたというよりも、思い出した。こういう考え方は、特殊な社会だけでなく、一般にもあった。
 親の悪口を言われれば、子は言った相手へ襲いかかった。また、友人が正当な理由なく殴られれば、友人の敵討ちをしようという気になるのは当然だった。
 今の社会には、そんな感情や通念は無くなったと思う。 
 現在の日本の社会では、親の敵討ちができない息子は腑抜けだ、という概念自体が失われてしまったように感じる。
 この小説が描いているのは、私が中学生だった頃の過去であるのに、まるで大昔の世相を見せられているような錯覚におそわれる。