朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第42回20172/12

 鳶職だった男は、一兵卒として戦場に送られた。男は、サイパン島で、組織的な戦闘が終わってもなおゲリラ戦を行わされた。男は、ジャングルの中で無数の蟻にたかられた。男は、爆弾で片足を失った。男は、米軍の捕虜となった。男は、戦後復員し、彫師になった。それが、彫師の辰だ。
 マツと千代子は、長崎で原爆を被爆した。
 辰は、戦前も賭場に出入りくらいはしていたであろう。でも、堅気の仕事をしていて、刺青はその魅力に憑かれていたのであろう。
 マツは、貧しくても素直で情のある娘であったろう。千代子は、子のためにも必死に病気と闘っていたであろう。二人の女は、戦闘員ではなく、ただ長崎で育ち、原爆投下の時にその地にいただけであった。
 
 日本が国家として昭和の時代に何をして、庶民が、とりわけ表面に出てこないような圧倒的多数の庶民がどんな影響を受けたかを、知ることができる。フィクションではあるが、ノンフィクションを支えるイメージを持つことができる。ここには、昭和の戦時下と敗戦後の日本の人々が描かれていて、誇張はないと感じる。
 喜久雄の思い描いていることは、敗戦後の日本の現状と、さらに東京オリンピックに沸き立つ復興日本の別の一面を象徴しているように思う。戦後の日本には、成長著しい表の面と、戦争の影響が残り続ける影の面があったことを思い知らされる。
 作者は、喜久雄を、鋭い感性をもった男として描いている。