朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第71回2017/3/14

 周囲のお屋敷の立派さに目を奪われるのかと思いきや、山が見えないことに驚くとは。たらふくメシを食わせてもらえば、不安も心配もどこ吹く風といった喜久雄と徳次だ。バカなのか、どこまでも前向きなのか。
 羨ましいと感じる。若いというのはこういうものだと改めて思う。
 この小説の時代でも、喜久雄の年齢なら、高校受験のことばかり考えて、実際はちっともしていないのに、勉強に努力しなければならないと思い込んでいるのが普通だった。学校のことに無縁でも、徳次の立場なら、捕まらないかといつも警戒していそうなものだ。だが、この二人の関心は、新しい土地の風景であり、自転車とバイクのことだ。
 そして、現実の多くの同年齢の者の興味は、表面的にはどうであっても、この二人と大差なかったと思う。
 暴力はどんな場合も憎むべきであり、たとえ映画でもヤクザものなどは決して見ない。どんな理由があろうとも法と道徳に従い、もしそれを逸脱したら、自分から進んで罰を受ける。もしも、こういう若者を描いたとしたら、そこにリアリティを感じるであろうか。
 だが、昭和の時代であれ、平成の今であれ、喜久雄と徳次のような若者像の行動は非難され、否定される。喜久雄と徳次にはリアリティを感じるし、親近感をもつのに。
 つくづく、この小説の登場人物がおもしろい。