朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第146回2017/5/530

 一読者としても、庄左衛門の言葉にほっとした。
 喜久雄はどれほど安堵したか、喜久雄の心の内が伝わってくる。しかも、その庄左衛門の言葉がただ褒めるだけでなく、教えを含んでいる。
 喜久雄は、自分が代役に指名されてからはただ無我夢中で稽古し、この立ち稽古ではものを考える余裕などなかっただろう。
 俊介は、喜久雄に怒りをぶつけた後は、喜久雄の稽古相手を一生懸命にやってきた。立ち稽古の前までの周囲のうわさは、俊介に同情するものが多かったようだ。そして、立ち稽古で喜久雄が褒められた時は、我が事のようにほっとしたはずだ。それが、次の瞬間には、自分の芸が喜久雄よりも劣るという評価に結びつくことに気づいた。
 普通なら、代役としての喜久雄の評判が高くなればなるほど、喜久雄は慢心するし、俊介は悲哀を味わうことになるだろう。さて、そうなるだろうか?