朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第223回2017/8/17

その一
 今回を読む限りは、喜久雄は清田監督の狙い通りに動かされ、否応なしに極限状況の演技を、引き出されたようだ。もし、そうであったなら、喜久雄はその演技を演技として割り切っていないようだ。

その二
 監督という存在のない伝統芸能の世界に打ち込んでいる喜久雄にとって、今回の映画出演は、同じ俳優と言っても、あまりにも違いがあったであろう。二代目半二郎も、喜久雄も映画出演はしていたが、それは、歌舞伎俳優としてのイメージを壊すようなものではなかった。
 『太陽のカラヴァッジョ』では、歌舞伎役者が「一人の人間として丸裸にされる姿」を求められた。本物の歌舞伎役者が、一兵卒となった「歌舞伎役者」を演じなければならなかった。
 喜久雄の立場で想像してみると、それがいかに困難なことであるかを察することができる。
 歌舞伎役者が、極限状態での「歌舞伎役者」を演じるためには、徹頭徹尾自分自身を客観視できる演技力が求められると思う。

その三
 『太陽のカラヴァッジョ』が大ヒットして、喜久雄が歌舞伎でも映画でも大注目される展開になっていくだろうか?
 たとえ、そうなっても喜久雄の心はまだまだ晴れないのではないか。連夜の乱痴気騒ぎは、喜久雄の心が深く傷ついていることの表れだと感じる。