朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第229回2017/8/23

 この回のストーリーに直接の関係はないが、第十章 怪猫に入ってから、演技への喜久雄の反応を考えさせられる。

その一
 95回で、『隅田川』の舞台で我が子を探し狂女となった小野川万菊を観ている喜久雄と、俊介の反応が描かれていた。

「こんなもの、ただの化け物やで」
何かから逃れるように、笑い飛ばした喜久雄の言葉に、このとき俊介は次のように応えます。
「たしかに化け物や。そやけど、美しい化け物やで」と。(95回)


 結局、この時の喜久雄は、万菊の名演を理解できていなかった。

その二
 『太陽のカラヴァッジョ』で清田監督は、喜久雄以外にはプロの俳優をキャスティングしていない。喜久雄も含めて、この映画の全ての出演者から、いわば既成の演技を排除する考えなのだ。過去に徳次が、主役に起用されたことにも、清田監督のその考えが表れていた。
 喜久雄は、そのことに気が付いていない。

喜久雄演じる中野上等兵の見せ場でもあり、また試練の場。行き場を失った兵士たちの苛立ちと不安が喜久雄演じる女の仕草の抜けない兵士に向かうのでございます。「踊れ、踊れ」と皆に囲まれ、褌一つにされた自分が、その後、凄惨を極める暴行を受けるのでございます。(220回)

 結果として、喜久雄は、このシーンを監督の狙い通りに演じたのであった。映画の状況に極めて近い現実の状況に追い込まれ、そこから引き出された演技であったのだろう。そこから引き出されたものは、ドキュメンタリーではなく、清田監督が求めた演技であり、世界的に評価された演技だった。
 しかし、喜久雄本人にはそれが演技であったという自覚がないと感じる。
 喜久雄は、『太陽のカラヴァッジョ』の自己の演技を嫌悪し、拒否している。※223回感想と関連する。