朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第234回2017/8/28

 徳次は、『太陽のカラヴァッジョ』の撮影現場で、喜久雄が一番ひどい目に遭った時のことを知らないと思う。過去に遡るが、辻村の正体も知らないし、白虎が最期に「俊ぼん」と叫んだことも知らない。
 徳次の年齢は、三十歳になるかならないかだ。その年齢にしては、大部屋の役者なのか、喜久雄の付き人なのかはっきりしない。役者として、伸びていく風もないし、マネジャーとして有能というのでもない。
 それなのに、喜久雄は徳次を信じているし、傍から放そうとはしない。喜久雄だけでなく、市駒も、綾乃も、以前の春江もマツも、徳次を大切にしていた。それどころか、才能も金もない徳次のファンが芸妓の中にもいるという。
 要するに、徳次の魅力は、人柄なのだ。口は悪いし、乱暴なのに、周囲の人を大切にするし、世話になった人を裏切らない。それだけなのだ。
 理知では割り切れない人間の魅力が、徳次という人物を通して描かれていると感じる。