朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第237回2017/8/31

 万菊の言葉が印象に残る。

「そう……、丹波屋の半弥さん、やっぱり死ねなかったのねぇ」

 姿を消した俊介は、誰から見ても出奔するだけでなく、生きていられないと思われていたのだ。
 実の父、当時の半二郎からは芸の未熟さをあからさまに言われたも同然だった。その上、懸命に喜久雄を助けて自分も舞台を勤めたのに、誰からもそれを認められるどころか、陰口ばかりをたたかれていた。これでは生きていられないと思われて仕方がなかったのだ。
 ここで、大きな疑問が湧く。
 白虎(二代目半二郎)の言葉からは、喜久雄の芸が俊介よりも勝っているということはうかがえない。喜久雄が俊介よりも、上だとすれば舞台に立つことの熱意であろう。少なくとも女形としての才能では優劣はつかないと描かれていると思う。今となっては、白虎本人に聞きただすことはできないが、代役に喜久雄を立てた理由があったはずだ。
 梅木と竹野の頼みを聞いた万菊が、あるいは、二代目半二郎の気持ちを察しているのかもしれない。

 竹野の企画は、実現しそうな気がする。もし、そうなると、喜久雄は「完全な悪役」になるが、それもまた興味を誘う。
 さらに、俊介が舞台に復活するとなると、幸子がどう動くかが焦点の一つとなるように思う。以前の幸子なら、俊介の復活を心から喜び、同時に喜久雄への心配りもできたはずだ。だが、今の幸子は丹波屋の女将というよりも、新宗教の信者になっているのではないか。