朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第342回2017/12/18

 喜久雄は、鶴若の生い立ちとその苦労を知らないと思う。喜久雄が知っているのは、鶴若が万菊と並ぶ女形となってからだろう。だから、力も人気もある鶴若が、後ろ盾を失った若い喜久雄にひどい仕打ちをしたと感じている。それなのに、テレビ番組を見て、鶴若へ同情とも言えそうな感情を持っている。
 語り手によって明かされた鶴若の生い立ちを、喜久雄が詳しく知ったら、過去のひどい仕打ちに対する感情も違ったものになると感じる。
 
 弁天の言いたいことがよく分かる。お笑い芸人は、売れるまでは歌舞伎役者よりももっと低く見られ、世間からだけでなく芸能界の中でさえ、さんざん虐げられてきているはずだ。

 他人の過去を知るのは難しい。自分が接しているその時とその場でしか、人を判断していないと知らされる。

 辻村のパーティーの件がきっかけとなって、喜久雄は歌舞伎に復帰できたので、辻村は恩人だ。辻村が父を撃ったことを喜久雄が知ったら、辻村は親の仇だ。では、喜久雄の父、権五郎と辻村が出会った時のことを知ったら、どうなるか。

 「おい坊主!飢え死にしとうないなら、俺の首、食い千切って奪い取れ!」
(略)
 辻村は饅頭を食うために、男の首に噛みつきました。本気で、この男、権五郎の首を食い千切ろうしたのでございます。(318回)

 
人間は、今だけの存在ではない。人間は、表面には見えてこない面を必ず持っている。そう思わされる。