朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第495回2018/5/24

 徳次に、優れた才能はなかった。徳次は、大部屋役者もこなすし、源さんのような付き人もやれた。だが、喜久雄のような芸事の才能も、弁天のような芸人としての才能もなかった。
 中国に渡った徳次が成功したのも、先見の明と商売の才能があったからではなさそうだ。運が味方し、時代の波に乗れた結果であった。
 徳次には、人生をかけてやり遂げようとするものがない。喜久雄や俊介のように本物の役者になるという信念や、春江のように世間を見返してやるという根性もない。食うことと遊ぶことと金儲けが好きなだけだと感じる。
 徳次には、自分がない、自我だとかアイデンティティーなど無縁だろう。

 徳次は、己を犠牲にして他人に尽くすことができる。だが、何か深い考えがあってそうしているのではない。ただ、自分が好きな人のためなら、どんな辛いことでもできるというだけなのだろう。そして、それは、特別な場合だけでなく、暮らしの中で、自然に周囲の人々にわかるようなものなのだろう。

 徳次のように生きる人は、今や皆無だ。徳次と逆の生き方は、私も含めて今の日本にはいくらでもいる。つまり、安定を求め、損得を考え、将来に備え、なによりも自己を大切にするような生き方だ。

 徳次に憧れる。空想だけでも、徳次のようになりたい。