本人はまだ知らぬが、人間国宝に認定され、万座の観客を魅了している喜久雄は、何を見、何を感じているのか?
 役者として、完璧な今の自分に満足しているようには感じられないのだが‥‥
 
 
 共演の京之助が、喜久雄の様子について、一豊に次のように尋ねた。

「いや、誰か別人とやってるみたいだったからさ。でもあれだ、いつもそばにいるおまえが気づいてないんなら、まあ、いいのかな……」
(略)
 首を傾げながらも、取り立てて深刻になるわけでもなく、その場はそれで終わったのでありますが、京之助の引っかかりは取れぬまま、この一豊には、誰か別人とやっているみたいだと咄嗟に言ったのですが、もう少し詳しく申しますと、一緒に舞台に立っているのは紛れもない喜久雄なのですが、同じ舞台に立ちながら、自分が見ている風景と、横で喜久雄が見ている風景がまるで違うのがはっきりと伝わってくるのでございます。(第十九章 錦鯉 2 452)


 深夜一時を回った町を、喜久雄は一人だけで、雪景色に魅せられて歩き回っていた。

(略)喜久雄がふいに立ち止まったのはそのときで、恐ろしいほど澄み切ったその瞳で、徐に周囲を見渡しますと、
「きれいや‥‥」
 そう呟き、夜空からの粉雪を抱き止めるように、その腕を空へ伸ばしたのでございます。(第十九章 錦鯉 19 469)



 喜久雄の楽屋を久しぶりに訪れた竹野が、喜久雄の異変に気づいた。竹野が、喜久雄にいつも付いている一豊に、「いつからああなんだ?」と聞く。一豊は、「ときどきああなるんです」と答えた。
 
 その答えに重なるのは、たった今見てきた喜久雄の、まるでガラス玉のような目。
「ありゃ、正気の人間の目じゃねえよ‥‥。なあ、いつから‥‥」
「『藤娘』です‥‥舞台に客が上がってきた‥‥、あのあとからです」(第十九章 錦鯉 24 474)


 さらに、一豊は、言った。

「‥‥戻ってこなくていいんです。今の小父さんは、ずっと歌舞伎の舞台に立っているんです。桜や雪の舞う美しい世界にずっといるんです。それは小父さんの望んでいたことなんです。だから小父さん‥‥、今、幸せなんです」(第十九章 錦鯉 25 475)

 喜久雄の異変は、六年前からのことで、一豊はもちろん、彰子や春江、周囲の役者たちも知っていたことだった。


 今、「阿古屋」を演ずる喜久雄が目にしているのも、舞台上の美しい世界だけなのであろう。

 琴でも三味線でも疑いは晴れず、いよいよ命をかけて胡弓(こきゅう)を奏でる喜久雄の目にも、吉野の桜、龍田の紅葉が燃えるように映っているのでございましょう。