春江は、自分と母を辛い目に遭わせた育ての父である松野を、憎んだ。薬漬けになった俊介を救い出す際に、松野は春江の助けになった。しかし、そのときの恩を感じながらも、松野を憎む気持ちは決して消えなかった。
 綾乃は、父、喜久雄のスキャンダルのせいで幼いころに深く傷ついた。大人になった綾乃が大相撲の花形力士と華やかな結婚披露宴ができたのは、父の力によるものが大きかった。しかし、自分の家が火災となり、娘が重症の火傷を負ったときには、父に対する憎しみを抑えることができなかった。
 
 この小説の語り手がいう。「五十年ものあいだ、秘されてきたこの真実が、おそらく今の喜久雄を作り上げたのでございましょう。」(479回)「秘されてきたこの真実」とは、父殺しの真犯人が辻村だったということだ。
 喜久雄は、父を殺した相手への憎しみを抱き続けていた。
 『国宝』には、どんなに長い時間が経っても弱まることのない人の憎しみが描かれている。
 憎しみは描かれているが、弱音と嘆きは感じられない。それどころか、憎しみを生きる力に代えていく過程が描かれている。
 春江は、自分の息子の犠牲に松野をしようとしたが、踏みとどまった。綾乃は、父への憎しみを二度爆発させたが、父を深く理解した。
 そして、喜久雄は、辻村の告白を聞き、自分の人生の最も輝かしい場面を思い出した。その場面は、歌舞伎役者となる第一歩であり、最も心を許すことのできる徳次との楽しいときであった。
 憎しみから逃げ出すことなく、憎しみを跳ね返すことは、憎んでいた人を許すことにつながったと感じた。