その時代の政府の命によって編まれた記録が、過去の事実を正確に伝えるわけではない。むしろ時の権力者によって歪められたものの方が多い。
 また、時の学者が記述した記録が正確かというとそうとばかりは言い切れない。学者は、研究の成果を記述するだけで実際にその時代の社会を生き抜いた人々の感覚から遊離している場合もある。
 もちろん、手記・私記の類が正確かというと、それも欠点は多い。手記・私記は、一個人の狭い範囲しか記録できない。だが、歴史の資料として多くの学説の根拠となる公的あるいは学問的な歴史資料と同じように、手記・私記もまた歴史上の価値を持つと思う。その意味で、この手記「一三八六年 ヨーロッパ中部 錬金術師の記録」はおおいに当時の事実を伝えていると思う。
 「尊師」は、世界中の人々が探究を競っていた物質を発見したのだと、この「手記」信じようと思う。しかし、それが「手記」であるがゆえに後世の人々は、この「手記」のこの物質の存在を信じなかったのだ。あるいは、信じた人がいても、その物質を再現することができなかったのであろう。
 そして、今、この「手記」を信じる人が現れた。それが主人公「僕」であり、「佐藤」とその背後の人だと思う。