カテゴリ: 夏目漱石 『門』の感想 

 いつも心のどこかに存在し続けた不安を、乗り越えることができた。
 押しつぶされそうになっていた不安は消えてはいない。その不安から逃げる方法も見つからない。だが、宗助は、不安に悩み、不安に怯える境地から一歩を踏み出すことができた。
 この小説のどこから、上のように感じたかと問われても、私にはうまく答えられない。だが、作品全体からそう感じる。

 宗助の禅寺での行動は情けないほどのだめな修行ぶりだった。修行を終えても、それが何の成果も上げなかったことは、はっきりと描かれている。それなのに、私は、禅寺から戻った宗助に変化を感じた。
 それは、悟りや座禅の効能ではない。宗助の心には、何をやっても不安からの逃げ場はない、何に救いを求めても救ってくれるものはない、というあきらめが生じたように思う。
 不安から逃れられないとあきらめることが、不安を乗り越えることにつながる、というのは矛盾している。しかし、私はそう感じるし、あきらめに身を任せた宗助に励まされさえする。

 あきらめの心を抱えての宗助の行動は、普段通りの暮らしだった。
 宗助の普段の暮らしは、御米と二人で生きる暮らしだ。金銭や出世や世間の評判にとらわれない暮らしだ。弟小六や若い禅僧や家主の坂井とは、上下関係や損得や主義主張に関係なく付き合っていく暮らしだ。
 そして、職場を解雇されなかったこと、給料が上がったこと、弟の学費の目途が立ったことが宗助と御米夫婦の気持ちを明るくした。

 愛する人と結ばれても、それが幸福につながりはしない。
 だが、愛する人と伴に過ごす日常は何よりも価値のあるものだ。
 禅寺での日々から、日当たりの悪い崖下の家に戻った宗助の暮らしは、私にこのような感想を持たせた。

 世間の道徳に反して、恋によって結ばれた宗助と御米の日々が全編を通して描かれていた。
 宗助は、御米に向って「愛している」とは一言も言わない。御米を喜ばせることや家事を手伝うこともほとんどしない。
 そうでありながら宗助が真に思うのは、御米だけだ。
 御米が病気になったときの宗助の気持ちに、それが表れている。宗助は、妻の病を心配して吾を忘れ、妻の回復に心から安堵している。
 御米は、宗助以外には心を許す人がいない。
 宗助が禅寺へ行った時の御米の態度に、それが表れている。御米は、夫の悩みをあれこれと詮索せずに、夫が出かければ、戻ってくるのを信じてじっと待っている。 

 宗助と御米夫婦の家は、崖の下の日当たりの悪い場所に寂しげに建っている。一方、世間の常識に従って、当たり障りのない夫婦生活を保っている坂井の家は、日当たりがよくいつもにぎやかな様子に描かれている。

 私は、漱石が描いているものを、次のように受け取った。

 互いの意思で結ばれた二人だからといって、幸せな生活があるわけではない。それどころか、世間一般の考え方に反して一緒になった二人は、結婚後も世間から冷遇される。
 だが、その冷ややかな世間で、互いに思い合って暮らしていくことで、二人の心はより強く結ばれる。

 働くことに喜びも生きがいも見い出せない。労働は、賃金を得ることが第一義だ。そして、賃金を得なければ生きていけない。どんなにいやでも食うために働き、俸給をもらわねばならない。

 夏目漱石は、近代以降の俸給生活者、サラリーマンの姿を描いている。
 食うために職に就いて毎日勤めに出るのだから、サラリーマンの楽しみは勤めから家に帰る時と、休日だけになる。次の休日の幸福のために、毎日苦しくとも我慢して勤めに出る。混み合う電車で。

 このような見方をしない、あるいはしてはいけないという小説はたくさんある。仕事に意義を感じ、働けることが幸福だという小説の主人公も多い。
 それが、幻想だからこそ、何遍でも描かれるのだろうか。
 現実の世の中は、様々な人々がいる。全てのサラリーマンが、「宗助」のようだとは言わない。
 しかし、俸給を得て労働することの本質と実態は、『門』で、作者が描いているものだと感じる。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第104回2016/3/3

 『門』を読むことができてよかった。

 過去に読んだかどうか曖昧だったが、初めてだった。
 坂井の口から安井の事が出てからは、連載を待ち切れず最後まで読んでしまった。その後も、連載は毎回読み続けた。最終回を読んで、改めて『門』を読み終えた感じを味わっている。

 幸福にあふれている結末だ。

 私自身の指針となる結末だ。


御米は障子の硝子に映る麗かな日影をすかして見て、
「本当にありがたいわね。漸くの事春になって」といって、晴れ晴れしい眉を張った。宗助は縁に出て長く延びた爪を剪りながら、
「うん、しかしまたじきに冬になるよ」と答えて、下を向いたまま鋏を動かしていた。


 「冬」になっても、宗助と御米は今までに変わらず日々を積み重ねると受け取った。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第103回2016/3/2

 坂井の菓子と蛙についての話は、印象に残る。
 夫婦が長年連れ添っているだけで、それはめでたいことだ。平凡にただ生きていることは幸福なことだ。坂井の話からは、こういうことが思い浮かぶ。
 不安に押しつぶされそうになり、救いを求めて禅寺へ行ったが、救いは得られなかった宗助に、坂井の家でのこの話は、何かを与えるものであったと感じる。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第102回2016/3/1

 坂井は、弟と安井の満洲と蒙古での行動を価値のあるものとはとらえていない。
 宗助も、安井のことを詳しくは聞かないが、満洲へ渡ったというだけで、彼が世間から外れた不安定な生活を送っていると考えている。
 これは、坂井と宗助の偏見などではなくて、当時の実際がそうであったのだろう。
 外国と言っても、欧米とアジアでは全く違うイメージを持たれていたと思われる。満洲へ渡る目的は、金儲けのため、なんらの意味で日本を脱出するためが多かった。それは、日本の満洲に対する国策の反映でもあったことが歴史から分かる。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第101回2016/2/29

 十日間の修行は無駄であったのか。
 若い禅僧は、宗助が求めていた境地にいる人だったと思う。しかし、その悟りの境地に至るには、膨大な時間をかけた修行か、家族や職業を捨てた生活をしなければならないと、理解したであろう。
 宗助が、これ以上の長い日数をかけることはできない。家族と職を捨てることも望まない。
 宗助は、今まで通りの生活を続けながら、安井の影から生じる不安に向かい合うしかないと考えたであろう。その覚悟に行き着いたことに、この十日間の意味があったと感じる。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第100回2016/2/26

 禅寺で過ごしたことは、何の成果も上げなかったが、無駄ではなかったと感じる。、悟りの境地には全く届かなかったが、禅寺での体験は宗助に変化をもたらしているとも思う。

彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。

 「門」が何を象徴しているかの答えは、一つではない。私は、その一つとして、「門」を、人生の不安と葛藤を乗り越える境地に至るための門、ととらえてみた。
 
 宗助は、完全に世俗を離れた生活に入って、生きていく上での不安や葛藤を乗り越える境地に至ることはできない。
 宗助は、生きていく上での不安や葛藤から逃避したり、それに打ちのめされる生き方はしない。
 彼は、世俗に生きながら、不安や葛藤を乗り越える境地を求め続けなければならなかった。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第98回2016/2/24

 宗助は、講者から修行に対する自分の不心得を叱られたと感じている。感じているだけでなく、実際にそうなのだろう。
 座禅には相変わらず身が入らないが、講者からの話には興味を持っている。

 この寺に来てからも宗助の心が、修行で落ち着くことはなかった。しかし、寺に来る前のような居たたまれないほどの不安に脅かされてはいない。修行に真剣に取り組めないことを悩んでいるので、安井についての不安と罪の意識からは離れていられるのだろう。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第97回2016/2/23

 自分の答えを老師に退けられても、宗助は熱心に修行しようとはしていない。では、禅の修行をばかにしているかというと、そうでもない。宜道を大変に好ましい人物と感じている。が、宜道を目指して修行に励もうというのでもない。
 坐禅によって悟りを得るには、何日間かの短い期間では到底かなわないと改めて気づいたのであろう。

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